「ポストモダン」という言葉は今や死語に近い。ヌーソロジーの文脈からすれば、現代がモダンから出れた試しは一度もなく、むしろデジタルモダンの到来によって近代の世界観・価値観はより増強されて行っているようにも見える。科学主義や資本主義がその根底から変容を起こさない限り、近代の終焉が訪れることはないだろう。
個人的には、デカルト以後に起こった主観と客観の逆転が近代的思考の駆動エンジンになっていると思っているので、この逆転した位置関係が是正されない限り、人間主体という驕りを持って稼働するこの「人類」という暴力装置が停止することはおそらくない。つまりは、人間が自然主体の世界へと帰還できたときにこそ、初めてそこにポストモダンと呼べる時代が訪れるということだ。
自然主体の世界に帰還すると言っても、別に近代以前に戻れと言ってるわけじゃない。全く別のあり方で人間を自然の内部へと差し戻して行くのが必要で、そのための絶対条件は「自然を精神化させること」だ。物質的自然は近代の産物であって、これは本来的ではない。この誤った概念を解体させない限り、自然主体のビジョンの到来など望むべくもない。
「今さら自然の精神化なんて、どうやって?」と思う人も多いかもしれないが、このビジョンを実現させるためには空間に対する観念をその根底から変革させる必要がある。空間自体を精神化させるのだ。空間を単なる自然物の容器のように見なすのではなく、自然を律動させている一つの崇高なる精神の様態としてみなすこと。
ヌーソロジーが「奥行き」と呼んで執拗にフィーチャーしているものも、空間に内在する、かような精神のことなのである。
「奥行きこそが自己の場である」ということに異論を挟む人はそれほど多くはないと思う。過去の哲学者たちが語ってきたように、そこは紛れもない”この私”が実存している場でもあるからだ。それぞれの人が固有の奥行きの中に自分を感じて生きている。その事実がまだ私たちにはうまく意識化されていない。
意識は脳の産物であるとか、いや霊魂に由来するのだとかいった応酬で、科学と宗教が不毛な論争を延々と続けているのも、物質と精神をつなぐこの「奥行き」に私たちがまだうまくアクセスすることができていないからにすぎない。奥行きにおいて空間は精神であり、それはまた物質でもあるのだ。
そのような新-感覚が空間に舞い降りてくれば、文字通り、近代は幕を閉じ、近代が作り出した「人間」という概念も世界から消え去って行くことだろう。
7月 3 2023
奥行きの空間に対して自覚的になること
「ポストモダン」という言葉は今や死語に近い。ヌーソロジーの文脈からすれば、現代がモダンから出れた試しは一度もなく、むしろデジタルモダンの到来によって近代の世界観・価値観はより増強されて行っているようにも見える。科学主義や資本主義がその根底から変容を起こさない限り、近代の終焉が訪れることはないだろう。
個人的には、デカルト以後に起こった主観と客観の逆転が近代的思考の駆動エンジンになっていると思っているので、この逆転した位置関係が是正されない限り、人間主体という驕りを持って稼働するこの「人類」という暴力装置が停止することはおそらくない。つまりは、人間が自然主体の世界へと帰還できたときにこそ、初めてそこにポストモダンと呼べる時代が訪れるということだ。
自然主体の世界に帰還すると言っても、別に近代以前に戻れと言ってるわけじゃない。全く別のあり方で人間を自然の内部へと差し戻して行くのが必要で、そのための絶対条件は「自然を精神化させること」だ。物質的自然は近代の産物であって、これは本来的ではない。この誤った概念を解体させない限り、自然主体のビジョンの到来など望むべくもない。
「今さら自然の精神化なんて、どうやって?」と思う人も多いかもしれないが、このビジョンを実現させるためには空間に対する観念をその根底から変革させる必要がある。空間自体を精神化させるのだ。空間を単なる自然物の容器のように見なすのではなく、自然を律動させている一つの崇高なる精神の様態としてみなすこと。
ヌーソロジーが「奥行き」と呼んで執拗にフィーチャーしているものも、空間に内在する、かような精神のことなのである。
「奥行きこそが自己の場である」ということに異論を挟む人はそれほど多くはないと思う。過去の哲学者たちが語ってきたように、そこは紛れもない”この私”が実存している場でもあるからだ。それぞれの人が固有の奥行きの中に自分を感じて生きている。その事実がまだ私たちにはうまく意識化されていない。
意識は脳の産物であるとか、いや霊魂に由来するのだとかいった応酬で、科学と宗教が不毛な論争を延々と続けているのも、物質と精神をつなぐこの「奥行き」に私たちがまだうまくアクセスすることができていないからにすぎない。奥行きにおいて空間は精神であり、それはまた物質でもあるのだ。
そのような新-感覚が空間に舞い降りてくれば、文字通り、近代は幕を閉じ、近代が作り出した「人間」という概念も世界から消え去って行くことだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0