物質が先か(唯物論)、意識が先か(唯心論)という議論はもう古い

根本さんが紹介してくれていた、トランスヒューマニズム系の研究者方の意識に関する議論。
僕にはどうしても、こういう方々の議論は、問いの立て方が根底から間違っているように思えて仕方ない。

物質からどのようにして意識が生まれるのか。もしくは意識からどのようにして物質が生まれるのか。イデア的観点からするなら、これらはどちらも正しい問い立てのように思えない。物質と精神は同じものの二つの側面であり、その意味で、その発生も同時的なものと考えないといけないように思う。つまり・・・

素粒子とともに意識は生まれている——ということだ。

存在の転倒は秘教的伝統の基本だ。イデアとロゴスという相補的な関係がまるまる転倒したところに存在者の世界が生まれている。本来的世界はイデア→ロゴスという順に生成が進むのだが、人間の世界はロゴス→イデアというように両者の関係がひっくり返っている。
つまりは、言葉の世界が先行して、見ることが後追いになっているということだ。これもまたヌーソロジーがいつも言っている「他者-構造」がもたらしている効果と言っていい。

そして、このロゴスからイデアへと方向付けられたところに現存在としての人間の意識の場が生じている。素粒子とはこのイデアに方向付けられた場の別称である。
人間が持った言語で素粒子の世界を描像できないのも、こうしたロゴス的場とイデア的場の間に絶対的な差異が介在しているからだと考えるといい。
つまり、差異の思考が開始されない限り、意識とは何かは分からない。