ヌーソロジーサロンでシリウスファイルの第三弾を公開した。これから四弾、五弾………と続いていくだろう。ヌーソロジーのベースはこのシリウスファイルの僕なりの解読から構築されてきたものだが、ご覧になった方はもう分かると思うが、徹底して物質世界と精神との接続に関する質問がほとんどを占めている。
物質が精神の影であるならば、物質を通して精神の内奥を見ていくことが最も客観的な内観への道ではないか、と当時決め込んだからだ。素粒子は何の影なのか。原子は何の影なのか。水は何の影なのか。地球は何の影なのか。そして、身体とは何の影なのか——。
ヌーソロジーがいう意識の反転とは、この「何の」の正体を明らかにしていき、その正体に自己存在をアジャストさせ、物質でも精神でもあり、また、物質でも精神でもないものとして自己存在の深みを開いていくことにある。
いつも言ってるように、延長空間への意識の極端な偏りが、持続空間を物質として凝結させ、その偏りからの持続空間への潜在的な呼び戻しが人間の自己意識なるものとなって現れている。反転認識においては、この呼び戻しの機構が科学が素粒子と呼んでいるものの本性だ。
その意味で、素粒子構造の精神構造への翻訳はヌーソロジーにとって根源的イデアと呼ぶにふさわしい。その姿を顕わにすることが個人的には何よりも重要なことだと考えている。根源のイデアであるからこそ、そこには内在がいかにして外を生み出すのかというルートも絶対的記憶として刻み込まれている。
絶対的記憶なのであるから、それは必ず想起されてくるものでもある。そのルートが開通しさえすれば、すべては内在という、あの懐かしい風景が多くの人のもとに回帰してくるだろう。永遠回帰とはそのような出来事のことなのだ。
永遠を奪回するには、延長空間への極端な意識の偏りを是正しないといけない。この偏りをもたらしているのがドゥルーズも指摘していたように「他者」である。正確にいうなら超越論的構造の中にセットされた他者存在と言っていいだろう。意識において”鏡”の役割を果たす他者存在の機能のことだ。
この機能が延長空間を生成させ、存在論的な自己を人間、すなわち経験的自我へと変形させている。一神教が「神」と呼んでいるものの実質もこの「他者」にある。延長空間を自身の住処とする限り、私たちはこの「他者」の抑圧から逃れることはできない。
この抑圧する「他者」を超越の意味で、とりあえずは高層の他者と呼んでみよう。一方、経験的な他者は彼もまた抑圧されている者であるから、高層ではなく、低次に現れた表層の他者である。当然、永遠回帰が到来すれば、高層の他者は撤退し、表層の他者もいなくなる。無人島の風景がそこに現出する。
純粋な「物」の世界がそのようにしてやってくる。そこでは、自己も他者もまったく別の有り様へと変わることだろう。この場所はドゥルーズに倣って言うなら、深層と呼ぶにふさわしい。深層における自己と他者。OCOT情報が「力の対化」と呼んでいるのもこのような深層の自己と他者のことを言っている。物理学に翻訳するなら、こうした深層の自己と他者を形作っている場が複素2次元空間ということになるだろう。存在の根源的な位置だ。
そして、その位置は、いつでも私たちの目の前に”奥行き”として開かれている。
9月 26 2022
高層と表層と深層
ヌーソロジーサロンでシリウスファイルの第三弾を公開した。これから四弾、五弾………と続いていくだろう。ヌーソロジーのベースはこのシリウスファイルの僕なりの解読から構築されてきたものだが、ご覧になった方はもう分かると思うが、徹底して物質世界と精神との接続に関する質問がほとんどを占めている。
物質が精神の影であるならば、物質を通して精神の内奥を見ていくことが最も客観的な内観への道ではないか、と当時決め込んだからだ。素粒子は何の影なのか。原子は何の影なのか。水は何の影なのか。地球は何の影なのか。そして、身体とは何の影なのか——。
ヌーソロジーがいう意識の反転とは、この「何の」の正体を明らかにしていき、その正体に自己存在をアジャストさせ、物質でも精神でもあり、また、物質でも精神でもないものとして自己存在の深みを開いていくことにある。
いつも言ってるように、延長空間への意識の極端な偏りが、持続空間を物質として凝結させ、その偏りからの持続空間への潜在的な呼び戻しが人間の自己意識なるものとなって現れている。反転認識においては、この呼び戻しの機構が科学が素粒子と呼んでいるものの本性だ。
その意味で、素粒子構造の精神構造への翻訳はヌーソロジーにとって根源的イデアと呼ぶにふさわしい。その姿を顕わにすることが個人的には何よりも重要なことだと考えている。根源のイデアであるからこそ、そこには内在がいかにして外を生み出すのかというルートも絶対的記憶として刻み込まれている。
絶対的記憶なのであるから、それは必ず想起されてくるものでもある。そのルートが開通しさえすれば、すべては内在という、あの懐かしい風景が多くの人のもとに回帰してくるだろう。永遠回帰とはそのような出来事のことなのだ。
永遠を奪回するには、延長空間への極端な意識の偏りを是正しないといけない。この偏りをもたらしているのがドゥルーズも指摘していたように「他者」である。正確にいうなら超越論的構造の中にセットされた他者存在と言っていいだろう。意識において”鏡”の役割を果たす他者存在の機能のことだ。
この機能が延長空間を生成させ、存在論的な自己を人間、すなわち経験的自我へと変形させている。一神教が「神」と呼んでいるものの実質もこの「他者」にある。延長空間を自身の住処とする限り、私たちはこの「他者」の抑圧から逃れることはできない。
この抑圧する「他者」を超越の意味で、とりあえずは高層の他者と呼んでみよう。一方、経験的な他者は彼もまた抑圧されている者であるから、高層ではなく、低次に現れた表層の他者である。当然、永遠回帰が到来すれば、高層の他者は撤退し、表層の他者もいなくなる。無人島の風景がそこに現出する。
純粋な「物」の世界がそのようにしてやってくる。そこでは、自己も他者もまったく別の有り様へと変わることだろう。この場所はドゥルーズに倣って言うなら、深層と呼ぶにふさわしい。深層における自己と他者。OCOT情報が「力の対化」と呼んでいるのもこのような深層の自己と他者のことを言っている。物理学に翻訳するなら、こうした深層の自己と他者を形作っている場が複素2次元空間ということになるだろう。存在の根源的な位置だ。
そして、その位置は、いつでも私たちの目の前に”奥行き”として開かれている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ドゥルーズ, 素粒子