科学でも宗教でもないものへ

ヌーソロジーがなぜ素粒子の描像に躍起になっているのかというと、そこにのみフィシス(本来的自然)に戻るためのカギが隠されていると考えるからです。物質と精神へと自然が二元化されたところから形而上学は始まりました。素粒子を物質と見るなら、その精神的側面は数学で象られた素粒子の観念です。

本来的自然の基盤はこのように物質概念と数学的観念に分裂している・・・。どちらにも本来性はないということです。ただ、もし、この数学的観念が思考によって内的に描像されたとしたらどうでしょう?

それは当然、物質でも数学的観念でもないものになります。それは事実存在(物質)と本質存在(数学的観念)とに引き裂かれる以前の何かです。存在論の文脈から言えば、それこそが存在そのものということになります。OCOTが「カタチ」と呼ぶものは、実は”存在”のことであったということです。

実在論的思考でも、観念的思考でもない、両者を結びつける第3の思考が必要です。それがヌーソロジーが「ヌース(能動的思考)」と呼ぶものだと考えて下さい。

宗教や哲学は物質を語れない。一方、科学は精神を語れない。物質と精神、この両者の間に、両者の起源となる宇宙的生が眠っています。人間が自己と他者という存在形態に分かれ、生きることの意味を常に己自身に問うのも、この起源からの呼びかけの声の響きによるものです。