存在を開こう

@jikucafe
返信先: @kohsenさん
核質で覆われた世界のなかでは、無核質は弱く、それを利用するという転倒したかたちで見られてしまうのでしょうか。アワとサヌキのように。
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半田広宣
@kohsen
はい。人間の経験的意識が活動している位置が核質と呼ばれるものに当たります。無核質は核質においては素粒子の全体性として反映されています。その意味では電子を始めとした素粒子を利用したテクノロジーは無核質を転倒させて利用していると言えますね。シュタイナーにいう堕落したエーテルのことです。

以下、雑感。
素粒子を土台にした物質世界全体が霊的世界(エーテル界・アストラル界・神界)の転倒として表現されているということが人間の意識にはまだ見えてない。その原因は自己が自分を他者と同類の存在と思ってしまっているからだね。自己存在が無意識化していて、まだ立ち上がっていない。その位置が核質という人間型ゲシュタルトの場所。
物質世界を「所与」と呼ぶなら、所与を与える当のものの世界があって、それをドゥルーズなんかは「差異」と呼んでいる。ハイデガーの「存在」も同じ。ヌースの言葉で言うなら、この「差異」や「存在」の世界が無核質に当たる。核質は対象概念の力と言い換えもいい。無核質は、その意味では主客未分離の意識領域のようなものだ。

精神的個や霊的個体というのは、この無核質が意識に形作られたときに初めて自覚的に生まれる。これは哲学でいうところの超越論的なものが構成されている場のこと。つまり人間の経験的意識を作り出している側の世界。この無核質は付帯質の内面領域(物の内部)で働いている。それを顕在化させようともがいているのがヌーソロジーの営み。
科学的唯物論というのは核質膜で世界が閉じている状態。存在者のみで世界を見てしまっているということ。それこそ所与を与えている当のもの側について一切思考しようとしていない。それがハイデガーが云う”存在忘却”というやつ。私たちが「ある」と思っているものは、むしろ全き無なのではないかと勘ぐったのがハイデガーなんだね。

この状況のことをOCOTは「付帯質の妄映」って呼んでいた。世界が目の前に見えてはいるのだけど、中身は空っぽで、ハリボテだということ。存在者の世界が存在を構成する高次元の影なら、まぁ、そういうことになるわな。
だから、ほんとうは、存在を通して存在者が見えるようにならないといけない。そのためには一度、物の内部に入ってそこから外に出て、”存在”のルートを目覚めさせる必要がある。それがヌーソロジーでいうところの位置の等換という作業。持続側から時間を出現させるということだね。存在は持続→時間によって存在者として花開く。
私たちはそこに至って初めて、世界のこの多様な現前を自分や他者との関係性の中で問うことができ始める。
これからの時代はその方向に向かうべきじゃないかと思うけどね。