来るべき世界のための惑星芸術

最終構成では民主主義は消滅して行く。これは近代理性に裏打ちされた自由・平等の主体たる自我概念が通用しない時代に入っていくということでもある。国家や巨大IT企業など、最初はDXフル装備の権威主義のもとに世界はディストピア化して行き、その後に、新しい民主主義が芽吹いてくるのではないかと思う。

僕個人はこの民主主義のことをMona-Democracy(モナデモクラシー)という語感でイメージしている。ここでは縮めてMonacracy(モナクラシー)と読んでみよう。モナドとデモクラシーの合体語だ。要は近代自我ではなく、霊的個体化した者たちによる民主主義。だから、古い民主主義のように人間中心主義ではまったくない。そこでは鉱物も植物も動物もすべてが民衆。

モナクラシーの大地は4次元空間であり、そこで暮らす人々はコミュニケーションではなく、コミュニオンによって結ばれている。コミュニオンとはヌースによる精神流動のことで、この流動は、最初は人間の意識の量子同調から始まる。
モナクラシーの社会は社会契約ではなく、存在契約で成り立っており、自己と他者は物においてつながっている。物が自己と他者を等化しているという前提に立って、自然全体を精神の共同体として見なすわけだ。

当然、ここにおいての自己や他者とは持続に位置を持つ自己や他者であり、当然のことながら死者たちをも含む。物質的自然はこれら全モナドの生産によるものであり、当然、旧体制の自我もそれに含まれる。中心は集合主体としての物であり、彼らの知覚にはそれは大地としての地球として捉えられてくる。

旧体制からこの新体制への移行期では物質的身体の維持も必要なので、従来型の国家というマクロな政治システムを解体し、数万人単位のミクロな行政システムをブロックチェーンで組織化し、それらをAIでスマート化させ、マクロ行政やマクロ経済の均衡を取っていく。

問題は旧来型社会の欲望の質的変化が起こりうるかどうか。旧来型であれば、それはビジョンの達成であったり、金や地位や名誉を得るという極めて自我的なものだったわけだが、こうしたモナクラシー社会を推進して行くためのインセンティブとは何かということ。ここが難しい。。

不死というのはどうだろう。モナクラシー的社会は人間に不死をもたらす。。そうなれば、みんなこぞってそちらに動き出すのでは(笑)

資本主義社会が唯一恐れているものは器官なき身体の登場だとドゥルーズは語っていた。これは逆に言えば器官なき身体が到来しない限り、資本主義に終わりはこないということ。しかし、資本主義が末法万年が如く続くのならば世界に未来はない。器官なき身体とは不死なる人間のことでもある。
実際に不死になるかどうかは別として、あたかも自分が不死になるかのような感覚を与える新しい世界観を作り出すこと。それがヌーソロジーがやっているゲシュタルト変革だ。自らのうちに眠る器官なき身体を一つのアーキテクチャーとしてデザインしていくこと。その意味でヌーソロジーはアートである。自らが地球になるための惑星芸術である。

下写真/Francois Morellet Reinstallations