再度、元初へ―「すべての創造の始めに”分離”が始まった」

以前からどうしても読みたかったハイデガー本をようやくゲット。ハイデガーがプラトンの「洞窟の比喩」について自身の存在論の立場から詳しく語ったもの。高価な本だったので手が出なかったけど、ヌーソロジーサロンのスタートがうまく切れたご褒美としてゲットさせていただきました。
今どき真理なんて言葉を使う人は滅多にいないね。知識人になればなるほど嫌う。ほんとにそれでいいのだろうか。

OCOTとのチャネリングがなかったら、ドゥルーズもハイデガーも多分読まなかっただろうな、という正直な告白(笑)
これからは人間が物となっていく時代。存在はすでにその方向へと舵を切っている。ただ、物への方向は同時に物質の方向への反映も作り出す。それによって人間という領域はなくなり、物の内部方向か、物質の内部方向か、というように意識は二つに分離していく。まずはそのことを意識化することが大事。

分かりやすくいうなら、もう人間の意識での外感覚と内感覚の葛藤の時代は終わり、外の外と、内の内へと分かれていくといった感じだろうか。二つの方向を見極める視力が必要。この両者は似て非なるものなので。
「存在は性起のうちで消滅する」というハイデガーの言葉がある。これは宇宙を生み出した大元の力は、自然を物質として表現した時点で自らは姿を潜めるという意味だ。いわゆる隠れ神のことと言っていい。しかし、これからは逆のことが起こってくる。すなわち―存在者は逆-性起のうちで消滅する。
消滅と言っても決して蒸発して消えてなくなるわけじゃない。存在と存在者とのズレが解消されていくのだ。見るものと見られているものの融合が起こりだすと考えるといい。OCOT情報はそのような世界を支配する力のことを「無核質」と呼んでいる。例によって、超クール(笑)
ハイデガーが”真理”と呼んでいるものは、この「無核質」に対応している感じがする。彼の言葉で言うなら、アレーテイア(非隠蔽性)というやつだ。もはや隠されていない……存在が露わに姿を表すということ。世界の隠れなさ。

普通は、「何言ってんだ、お前、世界は隠れてなんかいないじゃないか。ちゃんと目の前にありありと現れているじゃないか」と思うだろう。確かに、対象としてはそうだ。ハイデガーがいう非隠蔽性とは、それが対象知ではなく、自己知として見えている状態のことを指していると考えるといい。

要は、世界とは自己自身なのだ。しかし、それが対象として見えている限り、それは隠れている。隠されている。そういうことだ。
世界を対象知から自己知へと変えていくために、私たちはどのような思考を作り出せばいいのだろうか。残念ながらハイデガーは問題指摘をしただけで、その具体的な方法は示していない。それは時の問題であるかのような言い方をしているだけた。この辺りは仏教の正法、像法、末法という考え方に近い。
ヌース的に言えば、正法とは感性の時代(原始土地機械)、像法とは思形の時代(専制君主機械)、末法とは中性質の時代(資本主義機械)という感じか。日蓮なんかは末法は万年続くと言ってるが、OCOT情報は再び、正法を生み出した世界に戻ると言う。ハイデガーはそれを”別の原初”って呼んでる。/()内はドゥルーズ=ガタリの用語。

世界が対象に見えないようになるためには、見ている自分と見られているものが一つにならないといけない。時間と空間の中で存在者をイメージしている限り、それは不可能だ。だから、別の原初への欲望を持った思考はまず、この時間と空間から出ることを決意する。

下挿絵 /「エヴァの創造」ミケランジェロ
エヴァの創造