最近の夢想

最近は存在を思考すること(芸術や宗教儀式等を含む)が最も重要な労働とみなされるような社会を夢想している(笑)。
生産重視の社会から見れば最高の怠慢というか、無駄飯食いのヒッピー的社会と言えるだろうけど、単純に人間の欲望が内在に向かうなら、そのような社会もアリだろう。古代はそういうものだったのだろうから。
バタイユなんかは生産ではなく、消尽を先行サセルベシとする普遍経済論なる過激な経済論を説いていたが、いずれにしろ、このオナニズム化した右肩上がりの経済発展信仰というヤツを生産性の欲望から撤退させるには、否定性の名の下に忘却された存在の場所を開くしかない。
アンタ方向が逆だよと。
バタイユの言うとおり、自然はエネルギーに満ち溢れている。太陽は何の見返りも求めることなく今日も地球にエネルギーを送り続けている。
純粋なる贈与がここにある。この贈与抜きには人間の世界なんてものは存在しちゃいない。
この膨大なエネルギーを発する元となる質量は一体どこからやってきたのか。それこそが富の源泉だ。真の生産だ。
この真の生産の謎を私たち人間はまだこれっぽっちも解き明かしちゃいない。
物理学は、ここで、やれカイラル対称性の破れとか、ヒッグス場とか、理屈を並べ立てるだろうが、失礼ながら、物理学者とて、それが何かなんてことには一言も答えられない。
エントロピーにしてもそうだ。エントロピー増大則で支配された宇宙に、なんで生命なんてものがいるんだ?
この自然界に満ち溢れる富の源泉・・・。その場所に経済の原点を見ないから、地球はこんなになっちまったんじゃないのかね。
生産のための消費なんて、もう誰もやりたがってないだろうに。
質量とは私たちの内在の力が作り出したもの、という発想がなぜ浮かばないのだろうか。
内在性の経済圏というものがあるんだよ。だから、私たちはこうして生きることができている。宇宙の風景を変えていかないと。

宇宙の風景