世界の反射としての人間から世界を反射させるものへ

世界は本当は単純なんだよ。人間は複雑に考えすぎている。世界は自分を反射させて人間を作った。人間にはその反射が見えず、反射後の世界を世界だと思い込み、そこに自我をもち、言葉で世界を固めてしまった。反射が起こる以前の世界に戻ればいいだけ。奥行きはその世界への入り口になっている。

反射の焦点に肉体が構成されているわけだけど、単なる肉体だけで自分を見るなら、それは死体と同じ。人間を物質のみで見るなら、死体と大差はない。生きる肉体が死体ではないのは、そこに奥行きが宿っているから。生きてる人間には常に奥行きが付き添っている。でも、死体には奥行きはない。ここでいう「奥行き」とはシュタイナーのいうエーテル体とほぼ同じ意味。

ヌーソロジーがいう「次元」とはこの奥行きを入り口として活動している人間の魂を形作る持続空間の構成を意味している。「次元」は〈ここ、今、わたし〉の内的な器官とも呼んでいいものであり、この「次元」の活動によって、〈ここ、今、わたし〉の内実が成り立っている。
当然のことながら、今の私たちにはこの「次元」が見えていない。それは休むことなく働いているのだけど、「わたし」の認識に何ひとつ上がることはなく、「わたし」は常にこの次元に反射させられた受動的なものとして生じている。この意味で「次元」は未だ眠ったままだ。次元は未だ「潜在化」している。

原因となるものは結果の世界の中では潜在化する。これは、存在者の世界においては存在は自らを隠蔽するというハイデガーの弁に同じ。

神はお隠れになった―というアレだ。

だから、「我は神なり」などと言って外に図々しく現れてくる神はそのほとんどが偽神だ。神は「わたし」の内の内に隠れている。内の内というところがミソ。そして、内部の内部は外部として現れる。存在の反射光がここに現れるわけだ。

この内部の内部が物質として見えてくることがヌーソロジーでいうところの「次元の顕在化」に当たる。そこにおいて初めて、私たちは精神の外化を果たすことができる。物質と精神の区別が存在しなくなる場所というものが、そこに現れてくるわけだ。外から見ると物質、内から見ると精神―主客のない世界はそのようにしてやってくる。

存在があるためには存在が欠如しなければならない(ブランショ)―であるのなら、「わたし」は一度、奥行き(死)を通して物の内部へと分け入り、そこにおいて他者側の死と出会い、そこから時間と空間自身となって再び外へと現れ出る必要がある。そのような奥行きの振る舞いのプロセスを表現しているのが本来の物質の姿なのである。

反射しか知らない人間にとって、物質は単なる表象でしかない。その意味で、表象とは虚無に響きわたる存在の残響に過ぎない。この残響から身をかわし、一度、奥行きのもとに内部へと分け入り、自らが表象を響かせるものとなって現れ出ること。永遠感覚はそのようにしてやってくる。