2006年の秋頃だったかな。
当時、ヌースアカデメイアのサイトの方で「カフェネプチューン」という会議室を運営していたんだよね。
『人神』や『シリウス革命』といったヌース本を読んでヌーソロジーの存在を知った人がたくさん集まって来ていて皆んなで楽しくワイワイガヤガヤとやっていた。
ピーク時には1日千人近い人が訪れていたんじゃなかろうか。
とにかく、そのくらいの人気サイトになっていた。
あるとき、そこに荒らしがやってきてね、それも複数で。明らかに何らかの悪意を持って攻め込んできたって感じだった。
まあ、今でいう炎上というやつだけどその対応に四苦八苦したんだよね。
攻撃してきたのがどこの誰だかは分からないけど、やはり“理論”好きの連中で、僕が「ヌース理論」と銘打って活動していたものだから理論の重箱のすみをつつくようなやり方でねちっこく、執拗に批判してきたわけだね。
こういうことをやる人たちは会って直に話をしてみればそんなに悪い人たちじゃないんだけど、ネット上ではあたかも悪霊でも乗り移ったかのように悪意の塊となって襲いかかってくる。
ナイーブな僕としてはかなり落ち込んだものだよ(笑)
それが一つの原因となって会議室を運営していく熱意が失せてしまってカフェ・ネプチューンを廃止しちゃったんだよね。
いろんな分野の人が集まっていたので今ではもったいないことをしたなと思ってる。
で、それからというもの、僕はヌースの思考体系を「ヌース理論」と呼ぶのはやめにした。
ニュートンの理論でもアインシュタインの理論でもいいんだけど、だいたい理論と呼ばれるものには人名がセットになっていて「誰の?」という固有名がいつもこびりついてるよね。
「ヌース理論」という呼称だと結局は半田なにがしというヤツが発案した理論云々ということになってしまう。
つまり理論というのは見た目とは裏腹に自我の情念で領土化される運命を持っているということなんだ。
もし宇宙的ロゴスによる理法というものがあるのなら、それは人と人との垣根を取り払っていくべきものであるはずなのに、逆に自我を底支えするように働いているところがあるわけ。
これは何も科学理論に限ったことじゃないよ。
極論すれば、キリスト教とイスラム教の対立だってイエスとマホメットの神に対する見解の違いから来てるとも言えるだろ。
宗派の分裂に見るように思想におけるセクト闘争なんかも全部そう。
ある理論と別の理論がぶつかり合うと、「オマエの理論は間違っている」「いや、アンタの方が間違っている」なんていった論争が必ず起きてしまう。
まぁ、科学的論争については実験検証が決着をつけるからそれなりに白黒の決着は着くわけだけど宗教や哲学の理論となるとそうはいかない。
実際、歴史的に見ても宗教や哲学の世界ではいろいろな論争があったわけなんだけど、論争のレベルが高かろうが低かろうがこうした論争はほとんどが不毛だということが分かる。
無意味。
なぜかというと、大方の論者は相手の否定によって自分の正当性を主張したいだけだからね。
この「否定の先行性」というのが大変よろしくない。
理論という言葉の裏にはいつも暗黙のうちに「オマエは間違っている、だからオレが一番正しい」という傲慢さが入り混じっているわけだ。
言明というのは結局のところ、誰かが行うわけだから自我の情念が混り込むのは当たり前の話。
それなら、必要以上に他者を刺激する「理論」という言い方は止めにして一つの「思潮」という形で進めていった方がいい。
領土化の境界を消すわけ。
そう判断して、僕は自分の行っている作業を「ヌース理論」と呼ぶのをやめて「ヌーソロジー」と呼ぶことにした。
確か2008年頃だったと思うよ。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
4月 1 2021
「ヌース理論」から「ヌーソロジー」へ
2006年の秋頃だったかな。
当時、ヌースアカデメイアのサイトの方で「カフェネプチューン」という会議室を運営していたんだよね。
『人神』や『シリウス革命』といったヌース本を読んでヌーソロジーの存在を知った人がたくさん集まって来ていて皆んなで楽しくワイワイガヤガヤとやっていた。
ピーク時には1日千人近い人が訪れていたんじゃなかろうか。
とにかく、そのくらいの人気サイトになっていた。
あるとき、そこに荒らしがやってきてね、それも複数で。明らかに何らかの悪意を持って攻め込んできたって感じだった。
まあ、今でいう炎上というやつだけどその対応に四苦八苦したんだよね。
攻撃してきたのがどこの誰だかは分からないけど、やはり“理論”好きの連中で、僕が「ヌース理論」と銘打って活動していたものだから理論の重箱のすみをつつくようなやり方でねちっこく、執拗に批判してきたわけだね。
こういうことをやる人たちは会って直に話をしてみればそんなに悪い人たちじゃないんだけど、ネット上ではあたかも悪霊でも乗り移ったかのように悪意の塊となって襲いかかってくる。
ナイーブな僕としてはかなり落ち込んだものだよ(笑)
それが一つの原因となって会議室を運営していく熱意が失せてしまってカフェ・ネプチューンを廃止しちゃったんだよね。
いろんな分野の人が集まっていたので今ではもったいないことをしたなと思ってる。
で、それからというもの、僕はヌースの思考体系を「ヌース理論」と呼ぶのはやめにした。
ニュートンの理論でもアインシュタインの理論でもいいんだけど、だいたい理論と呼ばれるものには人名がセットになっていて「誰の?」という固有名がいつもこびりついてるよね。
「ヌース理論」という呼称だと結局は半田なにがしというヤツが発案した理論云々ということになってしまう。
つまり理論というのは見た目とは裏腹に自我の情念で領土化される運命を持っているということなんだ。
もし宇宙的ロゴスによる理法というものがあるのなら、それは人と人との垣根を取り払っていくべきものであるはずなのに、逆に自我を底支えするように働いているところがあるわけ。
これは何も科学理論に限ったことじゃないよ。
極論すれば、キリスト教とイスラム教の対立だってイエスとマホメットの神に対する見解の違いから来てるとも言えるだろ。
宗派の分裂に見るように思想におけるセクト闘争なんかも全部そう。
ある理論と別の理論がぶつかり合うと、「オマエの理論は間違っている」「いや、アンタの方が間違っている」なんていった論争が必ず起きてしまう。
まぁ、科学的論争については実験検証が決着をつけるからそれなりに白黒の決着は着くわけだけど宗教や哲学の理論となるとそうはいかない。
実際、歴史的に見ても宗教や哲学の世界ではいろいろな論争があったわけなんだけど、論争のレベルが高かろうが低かろうがこうした論争はほとんどが不毛だということが分かる。
無意味。
なぜかというと、大方の論者は相手の否定によって自分の正当性を主張したいだけだからね。
この「否定の先行性」というのが大変よろしくない。
理論という言葉の裏にはいつも暗黙のうちに「オマエは間違っている、だからオレが一番正しい」という傲慢さが入り混じっているわけだ。
言明というのは結局のところ、誰かが行うわけだから自我の情念が混り込むのは当たり前の話。
それなら、必要以上に他者を刺激する「理論」という言い方は止めにして一つの「思潮」という形で進めていった方がいい。
領土化の境界を消すわけ。
そう判断して、僕は自分の行っている作業を「ヌース理論」と呼ぶのをやめて「ヌーソロジー」と呼ぶことにした。
確か2008年頃だったと思うよ。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
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