2月 6 2020
新時代の mono-no-aware―ヒトの内面と外面について
今まで僕たちの知性は物質を外から見て、その構造についてあれやこれやと思考してきた。
それは幅の世界で物質を”見せられていた”からにほかならない。
奥行きの世界では、物質は僕たちの内在性(精神)そのものになっている。
その空間の開き方の初歩の初歩をヌーソロジーは模索している。
こうした思考の場の発生によって、人間の意識はカタチの生成とともに徐々に空間の内部へと溶け込んでいき、やがてその溶け込みの身振りは溶け込まなかった者たちの場に物質として表現されてくる。
OCOT情報のいう人間の「意識進化」とはそういうシナリオだ。
その感覚が少しでも掴めてくると、創造の秘密というものがそんなに超越的なものと感じなくなってくる。
創造とは物をめくることなのだ。
「めくれ」とは見えない部分を裏返して見えるようにすることだから、物をめくれば物の秘密が露わになってくるということでもある。
ヌーソロジーは物をめくってるだけにすぎない。奥行きとは幅の裏側のようなもの。心と物質の関係もまた同じ。
ヌーソロジーが開こうとしているヌース(能動知性)とは、人間の心を知性に変えていく思考のようなもの。
心は通常、感じるものとされるけど、反転した世界ではそれは感覚ではなく思考へと変わる。
従来の思考は男根(ファルス)的だが、ヌースの思考は子宮的。女性が関心を持つのもそのためかね。
こうした内なる思考が生まれてくると、おそらく感情は外にあるものように感じてくるのではないかと思う。
それは新時代の「もののあわれ」と言っていいような新しい空間感情と言えるだろう―。
内空間の思考と外空間の感情。今まで夢想だにしなかったような人間の形式。
人間とは外と内の感覚が全く入れ替わった意識に浮上してくる新世界。
まったくの個人的予感だが、世界の未来はそうなっていくように感じている。
下写真 Jeroen fortgens― mono-no-aware
ピヨ子
2020年2月7日 @ 12:03
月は昼も夜も半分ずつ知っているのに、現代人にとっては 昼の面の方が脚光を浴び 夜の面は ないがしろにされています。
ボゾン君を悪者にするわけではないけれど、1人で丸まって自由にコロコロしていたいのに、ホラ 外に出るんだよ、と、気の合わない人と手を繋がされたり 這い上がろうとすると引きずり降ろされたり。。。
古代の人は、月齢にも それぞれ呼び名をつけ 「いとをかし」「あはれなり」と、風情を感じ取る心の遊びがありました。
現代人は いつも心が張り張りで、まさに「滑稽なくらい哀れ」です。
言葉は コトのハ(葉、波)、それらが接続詞や句読点で組み立てられて ロゴス的言葉となり、脳に接続されるのでしょう。
現れては消える話し言葉と 計算され構築された書き言葉、に相当するのでしょうか?
以上、ピヨ子流 推察でした(^^)