7月 26 2019
「なるもの」の世界と奥行きの思考
3次元的な空間認識で接する物。それらは歴史、社会、政治、経済などの文脈を通して様々な意味を伴って目の前に現れてくる。デュシャン風に言うならレディメイドというやつだ。
物はその意味では人間の無意識のベルトコンベア機構によって生産され続けている加工食品のようなものとも言える。
「あるもの」としての物質―。
「いるもの」としての人間―。
そして、その双方の世界をつなぎ、表相(入力)から表相(出力)に至るまでを統制している無意識の欲望機械。
この機械に回され続けることを私たちは文明の進歩とも呼んできたわけだが、いかんせん、この回路には肝心要の「なるもの(生成)」の領域がどこにも見当たらない。
なるもの・・・世界がこうあるように自らを然らしめた、自然の力。
今の地球環境や人間社会の疲弊も、この「なるもの」の世界の忘却によるところが大きい。霊性、スピリット、存在、差異・・・言い方は人によっていろいろだが、とにかく世界はそのような目には見えないポテンシャルがあってこそ成り立っている。
「なるもの」の世界は「あるもの」と「いるもの」の間に隠れている。文字通りそれは「間(ま)」として活動している。その間がほんとうは「物」なのだ。物が「間」であることが見えなくなると、それは物質と呼ばれるものになる。
ハイデガーが言うように、「物」はその「あらはれ」と共に身を隠す―という存在論的アイロニーがここにはあるわけだ。
ここで、フーコーのように「あるもの」のことを言語-存在(言葉)、「いるもの」のことを光-存在(知覚)と言い換えてもいいかもしれない。
「なるもの」の世界はその意味で言えば、言葉でも知覚でもないものが活動する世界なのだ。だから、「なるもの」に触れるためには、言葉と知覚の「あいだ」に入っていかなくてはならない。
数学的に言うと、それが4次元の世界ということになる。そこでは内と外がねじれ合い、見るものと見られるものは一つとなって、生命の原型力を渦巻かせている。
こうした力が時折、時間のひび割れから漏れ出てきては、物質にアウラを纏わせるのだ。
そして、ここが肝心なところなのだが、そのような世界は決して詩人の夢想の世界というわけではなく、物理的現実として存在している。それが量子場の世界なのだ。
量子をミクロ世界にイメージするのではなく、目の前の空間の中に立ち上げること。
奥行きの思考はそうやって言葉と知覚の「あいだ」の、そのひび割れのなかの静寂へと人間の精神をそっと連れ出す。
ピヨ子
2019年8月2日 @ 14:07
なんとなく秘密の基地っぽい この場所が気に入ってます。見つけられたくない、でも、ホントは気付いて欲しい、という やや分裂症気味を楽しむ人たちが 身を寄せる場、なのかと。
言葉と知覚の「あいだ」、
声の文化と 文字の文化について、考えたことがありました。
「口頭伝誦に基づいて考えうる《歴史》が個別参照性を持たない、いわば長い時代を通じて気長に煮込まれた集合的な記憶の粥のようなものである」(「無文字社会の歴史」川田順造)
また、文字記録に関して、「すべての語を共通に理解されている意味に用いることを余儀なくされる」(「言語起源論」ルソー)
今や、形骸化された言葉、さらに 足したり引いたり暗号化されたりのコトバで埋め尽くされている現代。
音のひとつひとつがエネルギーとなって発せられていたはずが、その輪郭だけを あまりに軽く並べたてられている現代。
だが、むしろ それは自然の流動なのかもしれない。
我々は、もはや 表面の声や文字を信頼していないのではないか?
その背後に充満する 言葉以前の「もの」に、意識を入り込ませているから。
眼差し(発信)と受信装置が 本来の機能に戻ったとき、声と文字は どれほどふくよかに、どれほどシンプルになっていくのだろうか?
kohsen
2019年9月20日 @ 11:19
——なんとなく秘密の基地っぽい この場所が気に入ってます。見つけられたくない、でも、ホントは気付いて欲しい、という やや分裂症気味を楽しむ人たちが 身を寄せる場、なのかと。
シェルターですね
いずれ、地上からは見えない地下都市になると思いますよ。
シャンバラというやつです(笑)
ピヨ子
2019年9月22日 @ 11:07
地底のオアシスで ボサノバ聴きながらうたた寝し、その状態に飽きたら 「ヒュー」と口笛鳴らして UFO呼び寄せ 地上世界に散歩に行く。
「そうです! 私が神様です。人間たちよ、悔い改めよ。」と、4、5ヶ所くらいに出没する。
上質のDVDとコーヒーを仕入れて 再び 地下都市の我が家へ帰宅♪
まぼろし〜〜
自然のエネルギーが 地上の張りぼてを破壊し始めている。玉ねぎの皮を剥き終わった後 何が残るのか?
片や、我々は 何を創造していけばいいのか?