受動的な光と能動的な光

永遠のもとに世界を見るとき、
わたしたちは「物」になる。
 
「物」は永遠を孕んでいる。
それは科学的には素粒子として表現されている。
 
「物」が素粒子からできていることを常識とするなら、
「物」が永遠によって作られているということも、そろそろ常識になってもいい頃だ。
 
光は物を見るためだけに存在しているわけじゃない。
光は、本来、君が「いる」ことの証でもある。
 
だから、光は必ずしも物理的なものとは言えない。
光が精神的なものだからこそ、光速度では時間は止まり、空間も消え去るのだと考えないといけない。
 
見える光ではなく、見ること、そして「いること」としての光へ。
 
奥行きに永遠を見る、奥行きに自分の根拠としての永遠を感じ取る、ということはそうした光の能動性を意味する。
  
拡大するのではなく、縮むこと。
 
自分の居場所を物の外ではなく、
物の中へと移動させること。
 
創造=生成は、そのようにして開く。
 
僕たちに決定的に欠けている感覚は、
二つの永遠が出会ったとき、
そこに時間と空間が生まれてくるということ。
 
そして、その時間と空間が、
その出会いを物質として表現するということ。
 
物そのものが本来、僕と君との共同体なのだ。
宇宙はそのようにして生きている。
 
人間が宇宙から疎外されている、
ということの意味もここにある。
 
物は本来、対象ではないし、
ましてや所有されるものでもない。
 
この屈折した認識を是正しない限り、
宇宙はやがて人間から離れ去っていく。
 
僕らが今の文明に直感的に感じている危惧は、
この宇宙の離れ去りにあると、
僕なんかは思うのだけどね。

光