ハイデガー哲学とOCOT情報をミックスして語ってみる

ハイデガーが言ってることはOCOT情報とほとんど同じ。
 
まず、ハイデガーのいう脱自(非本来的な自己の外へと抜け出し存在を了解すること)はOCOT情報でいう「付帯質の内面の顕在化」に相当してる。
 
これは、いつも言ってるように「幅化している奥行きの下に潜む持続としての奥行きに根源的時間を見出すこと」を意味している。
 
このとき生まれる奥行きの力のことをOCOT情報は「形質」と呼んでる。
 
形質とは持続空間で活動する形相としての精神のこと。
  
形質が働き始めることによって、核質(物質概念)は中和されていく。
 
これは、ハイデガー的にいうなら、存在者の思考から存在の思考へと遷移していくということ。
 
存在の思考とは、OCOT情報の文脈からすれば複素空間認識が始まることによって、対象的思考の働きが減衰していくことを意味している。
 
数学でいう複素平面は「形質の対化」に相当している。
 
形質の対化が生まれると、そこから精神は形質の等化に向けて動きだす。
 
そして、この「形質の等化」が「カタチ」を作り出すと言う。
  
「形質の等化」とは、分かりやすく言うなら、奥行きが幅側へと捻れることを意味してる。この捩れは物理学的にはクォークのスピノルのSU(2)を意味してる。
 
SU(2)が持ったこの捩れが物の起源(核子)となってる。
 
このSU(2)から僕らが時間と空間と呼んでいるものが現れてくる。
 
つまり、SU(2) という運動によって、物と時空が、隠れと現れを同時に併せ持つようなかたちで作り出されてくるわけだ。
 
物を物自身の方から現れてくるとおりに、物自身の方から見えるようにする―これがハイデガーのいうエルアイグニス(性起)の数学的仕組みになっている。
 
この「現れ」と「隠れ」は決して断絶したものではなく、付帯質の内面から見れば、単純な同型性に基づいた連続体になっていて、かつ、この同型的な生成の循環は無限に反復していく。この真無限的な反復が物の多様性を生成していっている。
 
人間の意識はこうした精神の運動に対する反映として生み出されている。そのため、カタチをつくる方ではなく、カタチを対象として見る方向に持っていかされている。生成から追い出され、生成を対象側に見せられる位置に置かれているということだ。
 
こうした状態をOCOT情報は「形質の中和」と呼んでいる。要は、形質が働いていないということ。これが延長意識に当たると思っていい。時間と空間による幅支配の世界認識だ。
 
幅認識だと、当然のことながら、SU(2)を認識することができず、その下次元的投影であるSO(3)しか見えない。これは、非局所が局所へと落とされていることを意味するんだけど、持続において思考していないからこういうことになる。
 
ハイデガー的にいうなら、存在を見ず、存在者ばかり見ているということだね。そして、思考も存在者の域から出ない。
 
OCOT情報から見るなら、ハイデガーは正しいことを言ってる。
 
でも、ハイデガーの表現は晩年まで可能態のままで、現実態にはなっていない。
 
だから、「かろうじて神のごときものだけが我々を救いうる」なんてことを言ってしまう。
 
これはいかんよ。だから、神秘主義や信仰主義って揶揄されるわけだね。 
 
※下左イラストは堀内亜紀さんの作品「大物主」をお借りしています。OCOTをキャラ化したときのイメージだよ^^

大物主とハイデガー