ハイデガー哲学とヌーソロジー

―科学的思考は物質が時空の中で生まれ、様々な変遷を経て、多様に進化してきたものとして考えますが、ヌーソロジーではそういう考え方は一切しません。ヌーソロジーの思考から見ると、物質とは時空の「めくれ」のようなものなんですね。
 
「めくれ」とは、本当は裏にあるものが表のような顔をして現れているということを言うのですから、ヌーソロジーは物質を時空が裏返されたところで活動しているヌースという霊的実体が、あたかも無数の泡玉のようにして時空の中に浮き上がってきている状態として考えるのです。
 
          『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.305
 
科学的思考は、時空ベースで行なわれている。時空は物質を表現する場であることは間違いないが、その表現とともに物質の本性である「存在(ここでヌースと書いているもの)」は隠れ去る。それがハイデガーの言う「エルアイグニス(性起)」だと考えるといい。存在が忘却されてしまうというわけだ。
 
ただ、この隱れ去りの原因についてハイデガーは詳しく論証していない。これをヌーソロジーは複素空間(内部空間)から実数空間(時間と空間の世界)への遷移として考える。量子力学的に言うなら、「エルミート共役」というヤツがその原因となっているのだが、これは簡単に言えば複素共役が作用しているということだ。裏にあったものが表に出てきて「めくれる」というのも、この「共役される」という意味で解釈するといい。
 
めくられたものの方にとっては、これは裏返しにされたのであるから、このめくられたものが自分自身の本性に戻るためには、時空を再び本来の自分の方向へと裏返すしかない。それがヌーソロジーが「意識の反転」と呼んでいるものだ。つまりは、時空を作り出した元の世界へと身を翻すこと。
 
時空は実数領域であり、それは複素共役という「重次元」でできているのだから、この重次元を再び二つの個別の次元へと戻すこと。そういう言い方もできる。
 
「シリウスとは重次元における力の反転作用の意味です」というOCOT情報による「シリウス」という表現の真意もそこにある。
 
当然、このとき世界は、例えて言うなら、x^2+y^2の実数世界から(x+iy)と(x-iy)という形で因数分解されることになる。このとき生まれる「+i」と「-i」が〈自己-存在〉と〈他者-存在〉の種子の数学的表現と考えるといい。これは時間が二つの固有の純粋持続へと分離した様子を意味する。空間的に言えば、ここに真の「奥行き」の顕現が起こる。
 
「奥行き」を3次元内部の一つの実軸から、複素空間における虚軸と見なすことは、ハイデガー的に言うなら「感性的な眼からの〈唯一的な眼差しの跳躍〉」であり、ここで「唯一的な眼差し」と呼ばれるものこそが本来の自己だと考える必要がある。
 
この移行は「現存在」としての人間を待ち受けていた「存在」との出会いとも呼べるものであり、この出会いは「存在」が時空へと表現されていく道行きを今度は、ハイデガーいうところの「非-隠蔽性(アレーテイア)」として露見させていくことになる。物質が存在自身からどのようにして出現してきたのかを人間の知の歴史がたどり着いた物理学的知見を通して教授していくのだ。
 
ヌーソロジーがヌース(能動的思考)と呼んでいるものとは、この「道行き」のことと考えるといい。その最初の道行き(これがハイデガーのいう〈エルアイグニス〉の雛形となる)をダイアグラム化したものがヌーソロジーが思考装置の一つとして用いている次元観察子ψのケイブコンパスである。
 
このケイブコンパスを現代物理学の概念と対応させると、次のような構成になっている(下図参照―シュタヌー本p.469より転載)
 
この図の内側の転回円を物質、外側の転回円を時空と見なせば、ハイデガーが「存在者を存在させると同時に、存在者から身を引く」と説明するエルアイグニス(性起)の仕組みが一目瞭然で分かるのではないかと思う。
 
このダイアグラムから、一応の結論を出すなら、時間は存在を存在者として送り出す贈与者であり、空間はその存在者を再び存在へと向けて送りかえそうとするところに生まれる私たち人間自身、ハイデガーの言い方を借りるなら、「現存在」としての人間を根拠づけるものである。
 
「自己-存在は素粒子構造に根拠づけられている」とヌーソロジーが述べる理由も、こうした思索を通してのことだと考えて欲しい。
 
物質はまだ正しく知覚されていない。物質が正しく知覚され始めれば、それは自己-存在と他者-存在の結び目のようなものとして見えてくるだろう。
 
そこに、まもなく到来する、私たちの次なる社会の原型がある。

ケイブコンパスにおける複素空間の系列