「外に見えているものは内」を当たり前の感覚にしていくために

量子論を通じて超越論的なものの幾何学的構成を思考するということは、〈明晰で-混雑した〉ものの力を用いて、《理念》を〈判明で-曖昧な〉ものとして思考するということに等しい。これは経験的なものが存在を開示するに当たっての絶対条件ではないかと感じる。ヌーソロジーのアプローチがコレ。
 
この場合、〈明晰で-混雑した〉というのは、時空と内部空間を一緒くたに思考しているということに当たる。一方、〈判明で-曖昧な〉というのは、内部空間に限って言うならその構成は判明なものであるものの、延長認識からすればトポロジーとしてしか表現できないことを意味している。
 
もちろんトポロジー知覚が即存在の開示にあたるわけじゃないだろう。それはあくまで下地作業として考えるべき。現在のわたしたちが3次元を空間知覚のベースにして様々な意味の場を派生させているように、今度はその高次のトポスをベースにして、高次の意味の場を派生させていくということ。
 
量子構造の無意識構造への置き換えは、そのための基礎だということ。
 
構造と言っても、勘違いしていけないのは、これはズレ(対称性の破れ)からもたらされたものであるということ。だから、構造を見出すということは、ズレを見出すということであり、このズレの双方向を見出すことによって、構造はすべて消滅するはずだ。それが「光」を作り出しているものの正体だと思われる。
 
その境域をヌーソロジーは「真実の人間の精神」と呼んでいる。
 
〈明晰で-混雑した〉概念の代表格が粒子の運動量という概念。粒子の運動量は波動関数を位置xで微分し、-ihを掛ければ求められ、予想された確率通りにそれは計測される。いたって明晰な記述だ。しかし、そもそも粒子の運動量とは何なのか―これは逆に至って曖昧なものだ。
 
粒子は物体ではないのだから、実は運動などしていない。粒子に運動のイメージを与えること自体、存在を無理矢理、存在者の形式(時空的尺度)へと引きずり込んでいるようなものだ。エネルギーも同様。本来は、運動量もエネルギーも、純粋な内包、つまり、精神の力なのである。
 
量子の挙動は外の世界にあるものの理屈(古典論)に全く合わないのだから、それは外にあるものじゃないんだよ。ただ、それだけの話。それを、相も変わらず外にあるものとして考えようとするから、明晰だけれども、混雑したものになる(複雑化した数式等)。それは、外に見えている内なんだよ。
 
だから、当然、物質世界の全体性も実は外に見えている内ってことになる。シュタヌー本に書いた「物質とはノスから見たヌース」という内容もそういう意味。外がそのように見えてきたとき、忘却されていた「存在」が戻ってくるってわけだね。

外に見えている内