大地と世界との抗争の果てにやってくるもの

草が生える。動物たちが集まる。森が成長する。
ビルが建つ。人間たちが集まる。都市が成長する。
 
便宜上、前者をピュシス(生成)の世界、後者をテクネー(技術)の世界と呼んでみよう。
 
ハイデガーによれば、古代ギリシアではこのピュシスとテクネーが同一視されていたという。
 
もちろん、これは古代ギリシアではテクネーがピュシスと同等にイメージされていたという意味であり、古代ギリシア人にとって、技術とは自然の中に溶け込み、自然と一体となって生成すること=〈こちらへと、前へと、もたらすこと〉だったらしい。
 
それに対して近代がもたらした科学テクノロジーはどうか。
ハイデガーはそれを「挑発」と呼んで、生成(ポイエーシス)とは区別する。人間の生活に役立つよう、その用立てのために自然を挑発する行為、とでも言いたいのだろう。そして、この用立ての体制をゲシュテル(集-立)と呼んで批判する。
 
ゲシュテルには「骸骨」の意味もあり、ゲシュテルが支配していくところには最高度の危機が訪れるという。ただ、この危機は科学テクノロジーが自然破壊をもたらすからなどといった単純な理由ではない。ゲシュテルは真理の輝きと働きとを偽装するからだとハイデガーはいう。どういうことか―。
 
僕らは「科学的証明」を真理の働きと見なす傾向がある。実験を行い、統計的な優位さを持って現象の再現性を計れれば、それを概ねの真理とする、といったような身構えのことだ。科学テクノロジーも、当然こうした実証主義的なアプローチがあるからこそ、初めて制御可能になる。
 
ハイデガーは何が言いたいのか―人間が人工的に作り出す生成と、自然の生成はその本質が全く違うということだろう。そして、このゲシュテルの体制が作り出す偽の生成原理を本来の生成原理に重ね合わせて見てしまうところに、真の危険がある、と言っているのだろう。
 
だが、同時にヘルダーリンの言葉を引用して、こうも言う。
 
「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」
 
ここにあげた内容は『技術への問い』に書かれている内容だが、丸々、OCOT情報と一致していて非常に興味深い。つまり、生成にはヌース主導による生成とノス主導による生成との二つのタイプがあるということ。もちろん、前者がフィシスであり、後者がゲシュテルである。
 
OCOT情報によれば、ゲシュテルの体制が素粒子レベルにまで達したときに(原子力技術やコンピュータ技術と考えていい)、生成は本来のヌース先導型の生成へと方向を反転させていくという。ヌーソロジーが訴えているのも、この反転だ。
 
背後で何が起こっているのか―構造的には実に単純な話だ。ハイデガーのいうフィシスの運動が鏡映を作っているのである。ケイブコンパスでいうなら、Ψ10~9領域に対するΨ12~11領域がその偽の生成回路に相当している。この領域は、ヌーソロジー的には近代自我(コギト)の無意識構造の境域に当たる。
 
自然の中の都市、都市の中の自然。まぁ、どちらの風景でもいいが、そこには真反対の空間が折り重なって互いに逆向きのポイエーシスの運動を展開しているのだ。君にはそれが見えているだろろうか―。それは、ハイデガー風に言うなら、大地と世界との抗争でもある。
 
この抗争の後にやってくるものとは何だろう。
 
そこに新しい共同体のイメージを作り出すこと。