今日のヌース用語 【対化】

【対化(たいか)】

二つに分かれること。対化は双数的な関係を意味し、相互反照的となる。そのため、対化は必然的に四元的な関係を形作る。
 
※例→精神の対化とは精神と精神*の意味。精神には精神*は付帯質として現れる。同時に精神*には精神は付帯質*として現れる。自己と他者のこと。
 
OCOT情報がこの「対化」について、具体的な説明をしたことが一度だけある。91年6月のことだ。そこには次のようにある(交信記録より抜粋)。 
 
——対化とは見えるものに見えないものの方向性を与えるもの。対化とは精神に生み出されるもの。対化とは見えるという次元に反映されるもの。
 
一つ一つ、見てみよう。
 
対化とは見えるものに見えないものの方向性を与えるもの——
 
今の僕らには、「見えないもの」の方向性が生まれていない。もちろん、ここでいう「見えないもの」というのは、僕ら自身の精神のことと考えていい。その意味で、僕らの認識には対化が潜在化したままで、まだ顕在化していない。この潜在的な状態にある対化が、僕らが自己と他者と呼んでいるもののことだと思うといい。
 
ここでOCOTが言っている「見えるもの」とは物質世界のことと考えていいが、僕たちは今、その「見えるもの」としての物質世界を一つの客観の中で見ている。それが一つのものとして把握されているということは、そこに、すべてを等化した高次元の精神が働いていることを意味している。高次元でそのような精神が働いているからこそ、自他は世界を一つのものとして見ることを余儀なくされている。
 
対化とは精神に生み出されるもの——
 
すべてを一つに等化した精神が新しい方向を持つところに「対化」が生まれる。これは、そんな意味だろう。自己と他者とは高次の精神が、再び進化を作り出していくための礎のような存在だということ。そして、その進化の方向性は人間にとっては見えない方向に息づいている、というわけだ。
 
この頃は、見えるものと見えないものの関係が幅と奥行きの関係としてある、ということがまだ分かっていなかった。だから、当然、精神=奥行き、付帯質=幅という見方もしていなかった。「見えないもの」をただ霊的な観念や哲学的な観念の中だけで追いかけていた。
 
対化とは見えるという次元に反映されるもの——。
 
対化は見えないものの方向に方向を持っているにも関わらず、それは「見える」という次元に反映される、ということだ。どういう意味かというと、顕在化した精神と付帯質の活動は、結果的に物質として時間と空間の中に影を落としてくるということ。おおよそ、そんな意味だ。
 
ここで、実はOCOT情報は、ヌースを作り上げていくための思考の方法、思考のイマージュの在り方を教授していたのだということが今だからこそ分かる。つまり、見えないものの方向性を知るためには、見えるものを見ろ、ということ。それを通してしか、見えないものはつかむことができない、ということ。
 
もちろん、ここでいう「見えるもの」とは、単に目で見えるとかいった意味ではなく、僕らの科学が可視化した物質世界のあらましのことを言っている。物質がすべて対化を思考していくプロセスのイマージュであると感じ始めたのは、この交信から3〜4年後のことだったように思う。
 
形而上学は否定されてはならない。形而上学には悪しき形而上学と善き形而上学がある。悪しき形而上学とは過去へと向かう超越的な形而上学。プラトン哲学もその一つだろう。善い形而上学とは未来へと向かう形而上学のことであり、この物質的な地上世界そのものに形而上を見る形而上学のことである。

対化