核質・無核質・反核質——なぜ、わたしはあなたを殺してはいけないのか

付帯質が世界を背後に捏造し、主体を一つの仮面へと変えてしまう問題。そこでは、もはや世界に浸透した主体の精神は忘却され、ただ、対象と化した物質だけが残される。その中に浮かび上がる本当の顔としての他者の顔貌。レヴィナスはそこに「汝、殺すなかれ」という倫理的要請が記されていると語った。
 
しかし、この言葉は深く理解されてはいない。自己と他者の間にあるほんとうの距離感というものが、わたしたちにはまだ正しく理解されていないのだ。
 
OCOT情報は「他者とは上次元です」と味も素っ気もなく言う(笑)。これはレヴィナス風にいうなら、他者とは超越であり、自己とは同じ地平には存在していないということを意味している。
 
僕ら現代人は、基本的人権や自由、平等といった出来合いの社会通念を通して、自他における倫理の関係をイメージしてしまうが、そうした近代的理念がむしろ僕たちの倫理観を混乱させている。僕たちは、他者との距離についてもっと思考しなくてはならない。というのも、ここには平等と言うにはほど遠い隔たりがあるからだ。
 
他者とは絶対的な外部性だということを再認識しよう。だから「愛」のメッセージもまたこの外部に向けて囁かれなくてはいけない。ただ、それがどのような方向なのか、僕たちにはまだまったく分かっていない。OCOT情報が「後ろ=自分の仮面の方向」ではなく、なぜ「前=奥行き」に認識を向かわせようとするのか。それはその不可能な「愛」の方向へと向かわせようとするためだと考えてほしい。
 
後ろで支配された付帯質が持った共同幻想の空間を支えているのは言葉の力である。言葉とは、言ってみれば、本来、絶対的差異を持つべき自他の関係を無効にしている同一性の血流のようなものだ。物質の内部に巣食う肉汁と言ってもいいだろう。僕たちは外から物に名が付けられていると思っているが、事実は全く逆。
 
言葉は光の内部から滲み出て、この世界に物質を出現させている。物に重さを与えているのも、この言葉の中に潜む霊力だと考えるといい。重さの中には言葉の霊が住み着いている。
 
言葉とは反核質の力。物質とは核質の力。——by OCOT。
 
これらはそのまま、言葉とは「他者が自己と出会うところに生まれる力」、物質とは「自己が他者と出会うところに生まれる力」というように置き換えが可能だ。そして、事実、こうして君と僕とが出会うところで言葉と物質が活動している。
 
しかし、これだけでは最も大事なものが欠けているのが分かる。ここには、自己が他者へと変身を遂げていく場所がない。自己が他者のもとへと歩んでいく場所がないのだ。それを今から作り出さなくてはいけない。その場所の力のことをOCOT情報は「無核質」と呼んでいる。そして、物質はそこから落とされてくるのだとも言う。
 
僕自身は、自己が世界にこうして存在するのは、上次元たる他者に変身を遂げるためだと思っている。「わたし」が主体として代替不能であるのは、まさしく「わたし」がこの上次元にいる「あなた」の呼びかけの声に応答するためなのだ。そして、その応答を成し遂げたものたちの記憶の累積が今、こうして物質となって姿を現している。
 
汝、殺すなかれ——。
 
他者とは、そのような存在なのである。

他者