最大の自己欺瞞とは「オレ」かもしれないというお話

事物を対象として見ている限り、世界は常に外の世界でしかない。
 
で、この外の世界の信憑性を裏支えしているのが同一性というものだと考えるといい。
 
ヌーソロジーが「時空」と言うときには、大方、そのような意味を込めている。
 
この携帯はこの携帯。この財布はこの財布。このコーヒーはこのコーヒー。というように、同一性は頑なに名指しを反復する。そして、この頑なさは「わたしはわたし」という頑なさへと連続している。
 
「わたしがわたしである」ことは、現代人にとっては至って自明。わたしがわたしでなけりゃ一体何だというのか? あなたか? やめてくれ、気持ち悪い。というのが世間の常識的な反応ではあろう(笑)。
 
しかし、ほんとうに「わたしはわたし」なのだろうか。
 
現代人は、なぜ古代マヤ人たちのように『In Lak’ech』(インラケチ=あなたはわたし)と自然に挨拶を交わすことができないのだろうか?
 
個人的には、昔から「わたしはわたし」というフレーズには強い違和感を感じている。
 
何か騙されている感じとでも言うのか。
 
それは、デカルトの「我思うゆえに我あり」に感じる違和感と同質のものだ。
 
思っている我、と、存在している我はほんとうに同じものか?
 
思う”我”とある”我”は、本来、全く違うものであるのに、同じ”我”で一緒くたにされている居心地の悪さがそこにはある。
  
別の言い方をするなら、ある我が思う我を乗っ取って、思う我の本性を見えなくさせているということなんだが。
  
思ってるのは、ある我じゃないだろ。
 
これは、見られることによって作り出された我が、見る我を覆い隠すようにして、自分の中でのさばっていることと構図は同じ。
 
見られている我があたかも見る我であるかのように振舞っている。
  
何が自己欺瞞かといって、これほどの自己欺瞞はないと思うのだが。
 
世の欺瞞を暴くのも大いに結構だが、こちらの自己欺瞞を暴かないかぎり、世界は何も変わらないと思うのだけどね。

あなたはわたし