日本語は付帯質を前に持つ、とOCOT情報はいう。これは、日本語が人間の外面に主体を感じ取っていることを意味している。その意味で言えば、日本語とは”感性”言語であり、持続的な言語であると言える。
「もの」の言語と言い換えていいかもしれない。別の言い方をすれば、「あなた」の言語でもあり、主体は二人称にあるともいえるだろう。言葉が最初から相手の立場に立っているということだ。ここでは「わたし」は「汝の汝」として感じ取られる。
一方、他の多くの民族は付帯質を後ろに持っていると言う。こうした言語においては、主体は見られるところに作り出される。一神教であれば、神によって見られている自分という形で、自らを神の眼差しの中に措定するのだ。
このような言語は”思形”言語であり、「延長」の言語であり、「肉体」の言語であり、「わたし」の言語であり、主体は当然のことながら一人称にある。
観察子構造から見ると、付帯質を前に持たせている力の本質は、ヒトの定質という力にある。シュタイナー的にいうなら、これはアストラル界の力だ。一方、付帯質を後ろに持たせている力の本質は、ヒトの思形という力にある。これは、エーテル界の力に対応する。(下図は次元観察子に凝縮化させて表現)
アストラル界はすでに次元の交替化を二度持っている。
君は日本語の位置を正しく感じ取っているだろうか——。
12月 15 2017
日本語の位置
日本語は付帯質を前に持つ、とOCOT情報はいう。これは、日本語が人間の外面に主体を感じ取っていることを意味している。その意味で言えば、日本語とは”感性”言語であり、持続的な言語であると言える。
「もの」の言語と言い換えていいかもしれない。別の言い方をすれば、「あなた」の言語でもあり、主体は二人称にあるともいえるだろう。言葉が最初から相手の立場に立っているということだ。ここでは「わたし」は「汝の汝」として感じ取られる。
一方、他の多くの民族は付帯質を後ろに持っていると言う。こうした言語においては、主体は見られるところに作り出される。一神教であれば、神によって見られている自分という形で、自らを神の眼差しの中に措定するのだ。
このような言語は”思形”言語であり、「延長」の言語であり、「肉体」の言語であり、「わたし」の言語であり、主体は当然のことながら一人称にある。
観察子構造から見ると、付帯質を前に持たせている力の本質は、ヒトの定質という力にある。シュタイナー的にいうなら、これはアストラル界の力だ。一方、付帯質を後ろに持たせている力の本質は、ヒトの思形という力にある。これは、エーテル界の力に対応する。(下図は次元観察子に凝縮化させて表現)
アストラル界はすでに次元の交替化を二度持っている。
君は日本語の位置を正しく感じ取っているだろうか——。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 付帯質