9月 4 2017
「日本人(日本語)は付帯質を前に持つ」とは?
シュメールさんの質問があったので、記事を読んでくれている方々が、ヌーソロジーの文脈に沿って具体的に考えていけるための材料を掲載しておきますね。下図を参考にしてみて下さい。
・日本語は思形の言語ではなく感性の言語であるということ。
・本来はモノの手前側に主体を持っていない(主語がない)。
・持続空間を交差する方向の言語であるということ。
・物質意識が弱く、肉体的自我(分離意識)を持ちにくい。
これ対して、
・日本語以外の言語は、ほとんどが思形の言語のようです。
・思形の言語は付帯質を後ろに持ちます。
・結果、モノの手前方向に強い主体性を持ちます(主語)
・延長空間とともに働く言語です。
・物質意識が強く、肉体的自我(分離意識)が強い。
日本語の精神が「存在(持続)」とのへその緒を作っている、という意味が少しはイメージできるのではないかと思います。
これは日本人の知覚様式についても言えることですね。
言語と知覚は深く関係しているのではないかと思われます。
デネブさん
2017年9月8日 @ 11:19
少なくともこちらの記事を読ませていただいた限りでは、「付帯質を前に持つ」ということの言語学的意味とは、おそらく「主題優勢」や「能格性」といった類型論的特徴のことなのではないかと思います。
すごく大雑把に言って、主題優勢とは「主語がない(主題と比して存在感が薄い)」ということです。能格性はやや難しいですが、「自動詞の主語と他動詞の目的語とが同じ格標識で示される」ことをいいます。例えば主格対格言語では
「風ガ(主格)吹く」
「風ガ(主格)扉ヲ(対格)ひらく」
と表現したがるところを、能格絶対格言語では
「風ガ(絶対格)吹く」
「風デ(能格)扉ガ(絶対格)ひらく」
と表現したがります。見方によってはすべての動詞が自動詞のように働くと考えることもできますね。印欧語では前者の傾向が強く、また日本語も明治期の西洋偏重主義によってほとんど主格対格言語に変貌しました。「風で扉がひらく」のような例は数少ない日本語の能格性と言えるでしょう(能格動詞という考え方もありますが)。「*犬で扉が開く」「*私で扉がひらく」。能格言語→活格言語→対格言語、というふうに時代を経るにつれて変化するという研究や、変化がループするという研究もあったと思います。
また、岩崎式日本語という人工言語を制作している岩崎純一氏によると、精神障害を持っている人の言語運用にもおよそ能格性のようなものが現れるようです。健康な日本人は「私は/が扉をひらく」、精神障害の日本人は「私で扉が/をひらく」となることが多いようです。前者は自己の割合が低い作業ほど自然現象のように扱っている(例えば「みんなで扉をひらく」)のに対し、後者は心痛の希薄化のために自己をも自然現象のように扱っている、と考えられています。英語圏の障害者や子供も “The door opens my.” のような表現をするようです。「自我の発達段階に応じて格体系が変化してくる」という、ヌーソロジーとの親和性が高そうな研究もあります。
さて、これらのことを踏まえた上で「付帯質を前に持つ」ということを考えてみると、日本語だけがそういった特徴を持っているわけではないということになりますが(そうでなければ類型化できないので)、それら他の言語から殊更日本語を取り上げるだけの何らかの特徴が日本語にはあるのでしょうか? これに関して半田さんの意見を伺いたいです。あるいは「思形の言語」「感性の言語」という区別が実際の言語の特徴としてどのように現れてくるのか、といった点も明確にしていただけないでしょうか。
余談ですが、私も人工言語を制作するなかでいろいろと哲学をする必要があり、ヌーソロジーの知見が活かせないかと模索中です。サピア=ウォーフの仮説もあることですし、用いる言語から考え直すことで顕在化を図るやり方もあるのではないかと考えています。