「アマツカミってる」と「クニツカミってる」

今回は東京に出張。某出版社社長から日本民族とヌーソロジーの関連について是非、一冊書いて欲しいと依頼があった。日本人のアイデンティーが消えかかっている今だからこそ、是が非にもと(笑)。ただ、このお題については、すでに別の出版社から2年ほど前にいただいている。
 
カタカムナ……古事記……物部神道を横断する論理立てをヌーソロジーの観点から組み立てて、一つの霊的哲学SFとして展開する構想を練ってはいるものの、今現在の某国与党の状態があまりにアマツカミってる状態なので、書けないでいる。というか、書きたくない、というか。。
 
まぁ、いくらスピ系の出版物とは言え、「日本人は金(きん)」などと書いて、読者に勘違いされたくないわけだ(笑)。
 
まぁ、一流、二流、三流を問わず、ものを書く人間にとっては、誰もが筆を重く感じる時代になっているのではないかと感じる。世の中がこうした風潮になってくると、「人間」というドグマの圧がどこからともなく重くのしかかってくる。なんとか、日々、この圧に負けない別の身体性を!!と頑張ってはいるのだが。
 
このドグマの圧というやつ。出処をたぐってみると、やはりカガミにある。カガミは常に「これがオマエだ」という声を響かせているわけだが、そのとき名指しされた「ワタシ」は鏡像なのであるから、実像ではない。実像はいうまでもなく、「それはオマエだ」と告げ知らせるカガミにある。問題はそのカガミがある場所にまでどうすれば辿り着けるのかということ。これが、かくいう「別の身体性」のことなのだが、その進路を示しているのが内的太陽なのだ。
 
本来、内にある太陽を外に見てしまうなら、「ワタシ」はその実像と外的に同化してしまい、単に太陽の威を借りただけの邪悪な人間にならざるを得ない。「国家のため」とか「民族のため」といった安っぽい台詞を馬鹿の一つ覚えのように吐く権威主義的パーソナリティーがほんと最近、増えてきた。さっき言った「アマツカミってる」とはこうした所作のことを言う。
 
こうしたカガミの話を”たかだか神話”として嘲笑しないように心がけないといけない。内的太陽は潜在性の中においてはリアル(実在的)なものであり、個体化の原理として「ワタシ」の死後の生を保証しているものでもあるからだ。クニツカミが幽玄の世界を任されたのも、この内的太陽の保全のためだと考えよう。
 
あらゆるものには表と裏がある。太陽とて例外ではない、ということ。表だけではヒルコ。中身がないのだから当然グニャグニャ。表裏揃って初めて、ヒルコは姿を消す。そのあたりは推して知るべし。
 
※写真はhttp://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51878468.htmlよりお借りしました。