外に内部を感じとるために

外部=内部、内部=外部。世界はメビウスの帯のように内と外が捻れている。自己と他者の知覚の位置関係もまた同じ。だから、自他の意識的結合をはかりたいのなら、内に見えるものが外に、また外に見えるものが内に見えるような知覚を作り出さないといけない。
 
逆に言えば、そうした知覚の実現が、初めて自他というものに”出会い”の可能性を与える。
 
時空上で世界を見ることは、外部と内部を絶対的に隔絶することに等しい。科学者はそこに出現している物質の本性を探ろうと、物質の内部へと探索を進めていったわけだけど、結局のところ、そこには内部などといったものは存在していなくて、広大な外部に「非局所」という形で溶け込んでいく物質の姿を発見した。
 
この科学的現実に僕らは知覚をアジャストさせなくてはいけない。内部は外部であり、外部は内部なのだ。そうした知覚が生まれて、初めて「君は僕で、僕は君」という言葉が嘘っぽい響きを無くしてくる。
 
もちろん、今まで多くの人がこの内部と外部の対称性について語ってきたわけだけど、そのほとんどが空間的にしか思考していなので、ポイントを外してしまっている。この知覚達成のキーは空間というよりも、むしろ時間にあるんだ。つまり、物質の内部が外部に見えたときには時間が止まる―そう考えないといけない。
 
これを、カッコをつけて、「アイオーン(永遠)」と呼んでもいいわけだけど、そういった詩的な言い当てからも、僕らはそろそろ卒業してもいい頃だ。君が見ている外部には元から時間なんてものは存在していなかったし、元から非局所でもあった。それに気づけばいいだけなんだよ。つまり、目の前の世界は最初っから物質の内部だったということ。
 
ほらね。外部は内部という感覚が分かってきただろ?
 
この外部=内部という漠然とした感覚に、明確な方位とかたちを与えているものが素粒子の構造だと思うといいよ。その意味で、物理学者たちが今まで行ってきた作業はとても重要なものだったんだ。
 
今はまだ、その世界は男性的な難解な数式や言葉で領土化されているわけだけど、このかさぶたを僕達はゆっくりと剥ぎ取っていく必要がある。それによって、角質化した古い皮膚は姿を消して、真新しいすべすべとした魂の皮膚が現れてくる。そういう筋書きなんだね。
 
「女なるもの」の肌は美しいよね、きっと。