3月 21 2017
幅意識と奥行き意識の構想の歴史
テレポーテーションとか、タイムトラベルとかを物質空間でイメージしている人が多いけど、哲学がなさすぎだと思うな。そういったものはすべて持続意識の中でイメージされるべきものであって、外部の延長世界の中で起き得るものじゃない。科学的世界観に最も欠如しているのはこの持続概念なんだよね。
その意味で言えば、ベルクソンとアインシュタインの決裂が20世紀を決定付けたと言っても過言じゃないかもね。アインシュタインにはベルクソンの言ってることが理解できなかった。物理学者は今こそ持続概念を取り込んで量子世界を見直すとき。それさえ始まれば世界は大きく変わっていくと思う。
ただ、ここはかなり厄介なところでもある。科学が持続世界を実体として受け入れることは、人間の霊性を認めることと同じ意味を持つからね。科学が解き明かした物質構造(空間構造)は全く正当なものだとは思うけど、こと物質概念に依拠した世界観は霊性を認めてしまうと木っ端微塵に解体されちゃう。現在の知的権威のプライドがそれを許すはずもない。結局のところは、知的階級の人間性の問題ってことになるのだろうか。
持続空間の存在が最も端的に表現されているのが、前後、左右、上下という身体を中心にした方向の区別だね。これを物理空間のx,y,z軸とごっちゃにしてしまうから、みんな空間の本性が分からなくなる。x,y,z軸というのは見られているもののの空間。前後、左右、上下軸というのは見ているものの空間。後者は不変なんだよね。どこに赴こうが前後は前後だし、左右は左右。身体空間は動いていない。そして、その空間に持続が働いている(反転してるけど)。
多くの人が他者視点に自分の視点を持っていかれているから、当の身体までもx,y,z軸で見てしまう。身体空間の本質は素粒子の空間。そこに気づこうよ。「身体には魂が宿っている」というスピおきまりのクリシェも、「身体は前(奥行き)を通して持続空間に接合している」といったような概念に変えていかないといけないね。
身体空間が目覚めて自然を見出すと、世界にアウラが立ち込めてくるとでもいうのかな、自然はより高次の霊性の塊のように見えてくる。生きていく上で最も重要なのは、この方向感覚なんだ。世界はあるがままで霊界だってこと。
世界を物質と見るのと、霊界と見るのとでは方向が正反対なのが分かるよね。まぁ、これは幅意識と奥行き意識の抗争と言い換えてもいいけどね。人間の歴史も実はこの抗争のもとで発展してきたんだ。もちろん、今までは絶えず幅意識の優勢のもとにね。
でもね、これからは形勢逆転が始まるって話なの。奥行き認識の圧倒的な優勢のもとに幅認識を従属物として使いこなしていくこと。そしたら、世界は垂直性に向かって上昇を始めるって。
firi
2017年3月29日 @ 08:17
コウセンさんこんにちは。お忙しいかもしれないところすみませんが、どぉーーしてもわからないので、質問させてください!
つまり目の前に見ている世界は(細かい事を省略すれば)素粒子でできているのであり、それは当然ながら意識が胎動する世界であり、そこに今この文章を入力している自分の本来の意識(位置)があり、その点から、前に見える世界こそが奥行きの世界だという解釈で正しいのでしょうか?
別な例えで言えば、今も自分の体は無数の細胞が蠢いてこうして生きているわけですけど、その無数の細胞一つ一つも、当然なんらかの大いなる意思がないと動かないと思うのです。そこで胎動する大いなる意思の意識空間(精神が胎動する世界)の事を奥行きの世界という事でよいのでしょうか?
kohsen
2017年4月4日 @ 15:52
はい、ヌーソロジーの考え方では、奥行きは持続空間であり、それは物理学が素粒子と呼んでいるもののの内部になっています。
持続空間としての奥行きが持った空間構造を、幅で支配した時空の中で見てしまうと、それが素粒子構造として見えてしまう、という仕組みですね。
firi
2017年4月6日 @ 14:28
返答と新記事での補足説明ありがとうございました!
ようやく謎が解けた気分です。
こういうアプローチの方向性で考えてよいのか記事を見ながら一人で悶々としていました(笑)
それにしても、考えれば考えるほど2010年あたりから分裂して2極化していく現代の精神の方向性といいましょうか・・・オコツトの言っている通りに事態は進行しているようにしか見えなくて唖然としています。このままだともう両者は二度と交わることがないのではないかと最近考えたりします。変な例えだとイスラム教徒にフリードマン型の市場原理主義を信仰しろといっても絶対無理だというか、そんな感覚の絶対に交わることのない2極化です。