境界を解体していくこと

体の内部と外部の相互反転関係は誰もがそれなりに直観しているのではないかと思う。体の外部から見た体を表身体、体の内部から見た体を裏身体と呼ぶとするなら、前回のマグリットの『複製禁止』のような視線で自分の体を見るなら、それは表身体しか現前させることはない。このことは真の奥行きにこそ裏身体が活動している場あることを意味する。
 
表身体は物質的生活を営んでいるが、裏身体は精神的生活を営んでいる。表身体にx-y-z軸があるように、裏身体にも前後、左右、上下軸というものがある。表身体の世界はついついこの二つの三軸関係を同じものとして見てしまう。ここが致命的なのだ。外から自分の体を見つめる目こそが複製の意味だということを何も分かっていない。
 
先日、「肉体が魂の牢獄なのではなく、魂こそが肉体の牢獄である」と言ったが、それは人間が裏身体が息づく空間に対してあまりに無頓着だからだ。裏身体とは魂の異名と言っていい。それは不動の身体とも、無意識的身体と言ってもいいだろう。その身体があるからこそ表身体は活動することができる。この表と裏をつないでいるものが高次元空間である。この仕掛けを見抜けない限り複製は生産され続ける。人間は自分の魂に支配され続ける。結果、同じものが何度も巡ってくる。それこそ、ニーチェが見たあの悪夢のように。
 
さて、下に示した図1は以前も紹介した自己と他者を横から見た情景だ。もう、この時点でしてはいけない複製が起きていることが分かる。このとき裏身体はどこにいるのかというと、自他の関係をこのように見ているこの視線そのものの位置にいる。このような配置で自分と他人の関係を見てしまうと、自他空間の反転性は見えなくなり、人間は単なる物のようにして置き換えが可能になってしまう。「オマエの代わりなんていくらでもいるぞ」と今日も上司の罵声が飛ぶ(笑)。
 
さて、話はこれだけでは収まらない。自己は二人の他者を実際にこの配置で見ることができている。二人の他者にとっては互いの間には空間の捻れが存在しているにもかかわらず、その二人を見ている第三者としての私の視線はその捻れを全く無効にしているのが分かる。政治家の目、経営者の目、裁判官の目etc。こうした視線を持ったものの名はいくらでも挙げられる。
 
また、今度はそうした三者の関係を真上から見下ろす視線も裏身体は持っている。この視線は大地を離れ上空からの俯瞰の視線になっている。そこにまた別の権力が構成されていく。これらすべてが裏身体の為せる業だと考えなくてはならない。君はこうした視線たちに無意識に操られてはいないか。空間を幅ではなく奥行きで見るとは、こういう視線たちの欲望や生態を事細かに観察していくということを意味している。
 
参考までに、視覚における前と後ろの分離を複素平面で示すと下図2のようになる。前が青、後ろが赤だと思うといい。この平面の回転によって、単位円の内部は青、外部は赤で塗りつぶされるが、これは前と後ろが全く違った領域であることを意味している。つまり、この回転は自分の身体の自転を意味しているということ。前が内包空間になり、後ろが外延空間になる。今の僕らにはこの内包感覚がうまく認識に上がっていない。
 
ちなみに色が塗られていない側は他者側のそれだ。自己側とは数学的に複素共役関係になっているのが分かるだろう。これが量子力学にはエルミート性として表現されてくる。青と赤が反転関係にあるのはすぐに分かると思うが、色付きと色無しの部分もさらに上位の相互反転性を持っている。これらの反転関係を等化するのがSU(2)(複素2次元回転)だ。その結果、奥行きは前後からさっきの図のような左右方向へと進化する。このように裏身体は複素空間で構成されている。
 
前回のマグリットの絵から今までに至る書き込みはすべて関連性を持っている。アート、空間認識、精神分析、素粒子。すべてを関連付けて語っていけるのがヌーソロジーのエンターテインメント性。境界破壊の思考感覚は最高に面白い。

図1
第三の視線

図2
複素平面における前後の分離