(何事においてもそうだけど、一番大事なことは常に隠蔽され、人々をそこから遠ざけるように人間の体制というものは仕組まれているということ)
持続意識が持った時間的自由度というものにまずは注意を向けてみよう。意識は持続意識の中で過去を想起することもできれば未来も予期(予知ではないよ)することができる。だけど、持続意識だけだったら「いま・ここ」という現在が極めてあやふやなものになってしまう。
そこで意識は「いま・ここ」を固定するために、持続意識の働きを打ち消して潜在化させる仕組みをその内部にセットしている。持続意識は無意識化するということだね。これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係のようなものだと思うといい。等化が無意識(持続=非局所)、中和が意識(継起=局所)。
物理学がゲージ理論の中で対称性と呼んでいるものは、この局所性を保証するためのシステムだと考えるといい。局所的U(1)変換対称性であれば、持続意識が時間的に自由に動き回るとき、その動きの中で現在を見失わないように、絶えず意識の位置を現在に戻そうとする働き。そういうものだ。
局所的SU(2)変換になると、その意味で今度は時間領域が二つ出てきて、さらにそれを統一しようとする領域も出てくる。U(1)に対して時間領域の自由度がまぁ3倍になると思えばいい。この三つの自由度が、自己、他者それぞれの主観的時間性、さらには客観的時間性という位相に当たると考えるといい。
この変換が局所的対称性を持つというのは、持続意識がその領域を自由に移動できるのだが、それだけだと統合失調症的状況に陥ってしまうので、それをまた、「いま・ここ」へと戻し、等化を中和に持って行くというイメージだ。
そういえば、NOMI体験のとき、NOMIはこう言ってきた。「今からあなたを霊的世界へと案内しますが、それによってあなたは気が狂ってしまうかもしれません。その危険性を避けるための合言葉を教えておきます。」その合言葉は次のようなものだった(笑)
―いつもいつもとは、いつのことですか―
―はい、それは今のことです―
結局、僕は案内の途中でたびたび繰り返されるこの合言葉に答えられなくなり発狂してしまった(笑)。「現在」とは言ってみれば、人間の意識のアンカーのようなものなのだ。
このアンカーの役割を果たしているのが物理学者たちが言っている局所的ゲージ対称性の本質的意味だと思うといい。標準理論に倣うなら、僕らの持続意識の領域は大別すると、U(1)領域に始まってSU(5)領域まで五つある。その広大な領域を無意識は巡る一方、「いま・ここ」に錨を下ろしてもいるのだ。
これらの対称性を持って力を媒介するとされるボゾンとは、その意味でいうなら、中和側が先行した、僕ら人間の意識を司っている構造そのものの物理学的表現と言えるだろう。
局所的意識が表面に出て、非局所側が潜在的なものとして沈み込む―これが人間の意識の在り方だとすれば、人間の意識の反転というその語義は、非局所的意識が表に出て、今度は逆に局所側が潜在的なものとして沈み込むスタイルを取る。これがOCOT情報のいう「人間の意識の覚醒」というものだ。
物理学的にいうと、これは超対称性変換というものに当たると思われる。ボゾンとフェルミオンの変換対称性である。
ヌーソロジーでいう人間の定質(等化の総体)と性質(中和の総体)の交替化がこれに当たると思うといい。
この作業は、シュタイナー的にいうなら、アストラル体の霊我への変換と言えるだろう。
9月 26 2016
物理学の話は人気がないので、もう一度!!
(何事においてもそうだけど、一番大事なことは常に隠蔽され、人々をそこから遠ざけるように人間の体制というものは仕組まれているということ)
持続意識が持った時間的自由度というものにまずは注意を向けてみよう。意識は持続意識の中で過去を想起することもできれば未来も予期(予知ではないよ)することができる。だけど、持続意識だけだったら「いま・ここ」という現在が極めてあやふやなものになってしまう。
そこで意識は「いま・ここ」を固定するために、持続意識の働きを打ち消して潜在化させる仕組みをその内部にセットしている。持続意識は無意識化するということだね。これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係のようなものだと思うといい。等化が無意識(持続=非局所)、中和が意識(継起=局所)。
物理学がゲージ理論の中で対称性と呼んでいるものは、この局所性を保証するためのシステムだと考えるといい。局所的U(1)変換対称性であれば、持続意識が時間的に自由に動き回るとき、その動きの中で現在を見失わないように、絶えず意識の位置を現在に戻そうとする働き。そういうものだ。
局所的SU(2)変換になると、その意味で今度は時間領域が二つ出てきて、さらにそれを統一しようとする領域も出てくる。U(1)に対して時間領域の自由度がまぁ3倍になると思えばいい。この三つの自由度が、自己、他者それぞれの主観的時間性、さらには客観的時間性という位相に当たると考えるといい。
この変換が局所的対称性を持つというのは、持続意識がその領域を自由に移動できるのだが、それだけだと統合失調症的状況に陥ってしまうので、それをまた、「いま・ここ」へと戻し、等化を中和に持って行くというイメージだ。
そういえば、NOMI体験のとき、NOMIはこう言ってきた。「今からあなたを霊的世界へと案内しますが、それによってあなたは気が狂ってしまうかもしれません。その危険性を避けるための合言葉を教えておきます。」その合言葉は次のようなものだった(笑)
―いつもいつもとは、いつのことですか―
―はい、それは今のことです―
結局、僕は案内の途中でたびたび繰り返されるこの合言葉に答えられなくなり発狂してしまった(笑)。「現在」とは言ってみれば、人間の意識のアンカーのようなものなのだ。
このアンカーの役割を果たしているのが物理学者たちが言っている局所的ゲージ対称性の本質的意味だと思うといい。標準理論に倣うなら、僕らの持続意識の領域は大別すると、U(1)領域に始まってSU(5)領域まで五つある。その広大な領域を無意識は巡る一方、「いま・ここ」に錨を下ろしてもいるのだ。
これらの対称性を持って力を媒介するとされるボゾンとは、その意味でいうなら、中和側が先行した、僕ら人間の意識を司っている構造そのものの物理学的表現と言えるだろう。
局所的意識が表面に出て、非局所側が潜在的なものとして沈み込む―これが人間の意識の在り方だとすれば、人間の意識の反転というその語義は、非局所的意識が表に出て、今度は逆に局所側が潜在的なものとして沈み込むスタイルを取る。これがOCOT情報のいう「人間の意識の覚醒」というものだ。
物理学的にいうと、これは超対称性変換というものに当たると思われる。ボゾンとフェルミオンの変換対称性である。
ヌーソロジーでいう人間の定質(等化の総体)と性質(中和の総体)の交替化がこれに当たると思うといい。
この作業は、シュタイナー的にいうなら、アストラル体の霊我への変換と言えるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ゲージ理論, シュタイナー