プラトン―アリストテレス断層

天上に目を向けるか地上に目を向けるか。もしくは、価値基盤を普遍的なものに置くか個別的なものに置くか。言い方はいろいろだが、哲学的は常にこのプラトン-アリストテレス断層のズレを巡って思考を振動させてきた。ここで断層という言い方をしているのは、両者が二者択一を余儀なくするからだ。
 
目に見えない真理の世界を求めようとすれば現実はおろそかになる。方や、現実を一生懸命生きようとすれば何か大事なものが失われていく。それはおそらく誰もが感じている人生においての最大の矛盾だろう。哲学の使命はこの調停をいかに諮るかにあったと言ってもいいのだが、未だに成功例はない。
 
思弁的実在論がカント主義や言語哲学の呪縛から離れ、再び「物自体(イデア的なもの)」にベクトルを向けようとしている状況は個人的には実に喜ばしく思っているのだが、この思潮には必ずアリストテレス的な引き戻しの激震が起こるだろう。
 
イデア的認識には、それが見えないものだけに、常に妄想的思い込みがつきまとう。一見もっともらしい形式を立てようとも、その正当性を指し示すための「見えるもの」としての論拠がない。
 
学的認識はそのようなリスクを持つべきではない、というのがアリストテレス的姿勢だから、まっとうなイデア論がまともに立ち上がるためには「見える論拠」が必要なのだ。思弁的実在論がドゥルーズからの後退に思えるのも、この「見える論拠」を放棄した詭弁にしか聞こえないからだ。
 
カント主義者たちは思考と世界、経験とアプリオリは常に相関していて、人間はこの相関の外部に出て思考することはできないとしたが、果たしてそうか。外部性としてのイデア世界はドゥルーズが直観したようにこの相関の形式そのものを立脚点として在る。あとはその論拠を素粒子として「見せる」こと。
 
そうすれば、思弁的実在論はもはや思弁的でもなんでもなく、正真正銘の実在論となって科学的実在論や素朴実在論を自らの影として従属させていくことになるだろう。ここおいて初めてプラトン-アリストテレス断層はその深い溝を消し去ることができるのだと思っている。

プラトン・アリストテレス