7月 1 2016
まずは「円心」という概念をマスターしよう!!
人間は「世界に包まれて在る」ことはすぐに感覚化できるのですが、「世界を包んで在る」自分に対しては全くの不感症になっています。これは物質的自己と霊的自己の対称性が大きく崩されているということを意味します。ヌーソロジーでは「世界を包んで在る」自己の空間感覚の獲得が霊性を復活させめための必須条件であると考えています。
古代の原始キリスト教がイエス・キリストが宿る場所として示したヴェシカパイセスという形象があります。この形象が物質的自己と霊的自己の力の均衡を象徴化したものだと考えるといいと思います。このカタチのことをヌーソロジーでは「円心」と呼びます。 円心とは「円においては円周と中心は入れ替えが可能」という意味を持つ言葉です。→下図参照のこと
この円心の図で点aを肉体の位置、点Sを対象の位置と考えるといいと思います。「世界に包まれて在る」感覚は点aを自分の位置と見なしている意識が作っています。一方、「世界を包んで在る」感覚は点aが円周になっている円の方です。
こちらの円の中心点Sにおいてはaを囲んでいる円が中心の一点にまとめられています。つまり、自分の周囲に無数の対象があるとすると、点Sを中心点とする円側ではそれらがすべて重なって一点の上に見えているということです。
この空間は以前からお話ししている「観点の球面化」が達成されている空間のことを意味しますが、この空間は純粋持続が働いている空間側であり、持続であるがゆえに中心点Sは非局所になっています。非局所(あらゆるところ)が一点に重なって在るということの意味は、すべての記憶が重なって在るという意識的事実に対応していると思ってください。人間が目の前で過去を想起できるのも、持続に支えられた非局所が目の前に重なってあるからだと考える、ということです。それが中心点Sの意味です。
この持続に支えられた非局所点Sはその意味で「純粋過去」の位置と呼んでいいでしょう。純粋過去とはドゥルーズの表現を借りれば次のようなものです。
1.純粋過去は現在と同時なものとしてある。
2.純粋過去自体は過ぎ去らないし、到来もしない。
3.純粋過去は”存在した”ものではなく、存続し存在するものである。
4.純粋過去は過ぎ去る現在に先立って前存している。
記憶の容器としての非局所的空間が目の前に重なっていることを各自確認してみてください。その空間は、実は自分の周囲に見ている空間がグルッと反転したものなのです。皆さんの魂のカタチと呼んでもいいでしょう。十種神宝にいう「生玉」のことです。
後で強く感じてくることになると思いますが、この「円心」という概念は霊的空間を幾何学的に描像するための極めて強力な概念です。このカタチが思考に浮上してくることによって、わたしたちは時間が存在していない持続空間の構造を徐々に見ることができるようになってきます。そして、結果的に、それは現代物理学が記述する素粒子の世界の風景とピタリと重なり合ってきます。それはそれは恐ろしいくらいです。
素粒子世界との関係については、また、次の機会にでも話してみますね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • • Tags: 円心, 十種神宝
7月 1 2016
まずは「円心」という概念をマスターしよう!!
人間は「世界に包まれて在る」ことはすぐに感覚化できるのですが、「世界を包んで在る」自分に対しては全くの不感症になっています。これは物質的自己と霊的自己の対称性が大きく崩されているということを意味します。ヌーソロジーでは「世界を包んで在る」自己の空間感覚の獲得が霊性を復活させめための必須条件であると考えています。
古代の原始キリスト教がイエス・キリストが宿る場所として示したヴェシカパイセスという形象があります。この形象が物質的自己と霊的自己の力の均衡を象徴化したものだと考えるといいと思います。このカタチのことをヌーソロジーでは「円心」と呼びます。 円心とは「円においては円周と中心は入れ替えが可能」という意味を持つ言葉です。→下図参照のこと
この円心の図で点aを肉体の位置、点Sを対象の位置と考えるといいと思います。「世界に包まれて在る」感覚は点aを自分の位置と見なしている意識が作っています。一方、「世界を包んで在る」感覚は点aが円周になっている円の方です。
こちらの円の中心点Sにおいてはaを囲んでいる円が中心の一点にまとめられています。つまり、自分の周囲に無数の対象があるとすると、点Sを中心点とする円側ではそれらがすべて重なって一点の上に見えているということです。
この空間は以前からお話ししている「観点の球面化」が達成されている空間のことを意味しますが、この空間は純粋持続が働いている空間側であり、持続であるがゆえに中心点Sは非局所になっています。非局所(あらゆるところ)が一点に重なって在るということの意味は、すべての記憶が重なって在るという意識的事実に対応していると思ってください。人間が目の前で過去を想起できるのも、持続に支えられた非局所が目の前に重なってあるからだと考える、ということです。それが中心点Sの意味です。
この持続に支えられた非局所点Sはその意味で「純粋過去」の位置と呼んでいいでしょう。純粋過去とはドゥルーズの表現を借りれば次のようなものです。
1.純粋過去は現在と同時なものとしてある。
2.純粋過去自体は過ぎ去らないし、到来もしない。
3.純粋過去は”存在した”ものではなく、存続し存在するものである。
4.純粋過去は過ぎ去る現在に先立って前存している。
記憶の容器としての非局所的空間が目の前に重なっていることを各自確認してみてください。その空間は、実は自分の周囲に見ている空間がグルッと反転したものなのです。皆さんの魂のカタチと呼んでもいいでしょう。十種神宝にいう「生玉」のことです。
後で強く感じてくることになると思いますが、この「円心」という概念は霊的空間を幾何学的に描像するための極めて強力な概念です。このカタチが思考に浮上してくることによって、わたしたちは時間が存在していない持続空間の構造を徐々に見ることができるようになってきます。そして、結果的に、それは現代物理学が記述する素粒子の世界の風景とピタリと重なり合ってきます。それはそれは恐ろしいくらいです。
素粒子世界との関係については、また、次の機会にでも話してみますね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 円心, 十種神宝