女なるものへの生成変化―

人間という生き物はどうしても意識に起こっている出来事のすべてを「自分」という枠の中に括りたがる習性がある。いわゆる人間としての自己意識というやつだ。しかし、実はこの自己意識というものをリードしていっているのは精神的個というよりも社会的個と言った方がいい。
 
わたしは父でなければならない、母でなけれではならない、教師でなければならない、上司でなければならない―etc。ポジションは何でもいい。言葉の中にしか生きることのできない人間はこうしたポジションを確立することで自らの個体性を確保する。しかし、それは同時に精神的個が剥奪されている状況でもあるのだ。
 
現代人が「私的」の意味でよく使用するプライベート(private)の語源を調べてみるといい。この言葉は本来、「(社会的立場を)奪われたもの」といったような否定的なニュアンスで使われていた。肯定的な意味に転じたのはおそらく近代以降のことだろう。
 
社会的立場を持たなければ人間とは呼べない―人間には相変わらず、こうした古い父性的な考え方が優勢で、そこに個体のアイデンティティーを置きたがる習性がある。人間の個体性が名にあり、共同体が名を与えるのであるから、それは当然の成り行きと言ってもいいわけだが。
 
こうした類いの自己意識を存在論的病の形態として断罪したのがニーチェだった。つまり、ニーチェは普通にいう人間の自己意識を力の反動=否定性として生じた受動的ニヒリズムの産物と考えたということだ。この中で精神的個は逆説的な意味での[private]、つまりは否定的なものを剥奪されたもの、として細々と生きている。
 
フロイトも同様に社会を原抑圧の場と考え、この否定的なものを剥奪された[private]をエスと名付け、「エスがあったところに自我をあらしめよ」と宣言し、精神分析の手法を打ち立てた。
 
実のところ、社会的個に同一化を余儀なくされた精神的個の力ほどたちが悪いものはない。というのも、この力は否定性を否定しようとする二重否定の情念としてのたうちまわるからだ。自分の人生を呪うことがそのまま社会を呪うことに直結する病の病。いわゆる、あらゆる「悪」の生産様式がここにはある。
 
しかし、一部の宗教のように「個は幻想です」などと言って、社会的個の意識をマヒさせようとしてもそれは不可能だろう。わたしたちがまず手をつけるべきは、社会的個と精神的個の明確な区分である。それができて初めて、この主従関係を根底からひっくり返す根源的反転性を見出すことができる。そして、こうした思考だけが、肯定に基づいた世界の産出を可能にする。
 
そして、ここからが一番大事なところ。
 
この根源的反転性は自我意識の中には決して回収されてはならないし、また、回収できるものでもない。だからこそ、わたしたちは「全く別物の意識」を現在の個的意識と並行させて作り出していく必要があるのだ。彼を決して「わたし」という人称の内に括ってはならない。そして、この名のない彼を忍耐強く育てていけば、やがて彼は人間を母と慕うほんとうの意味での神へと成長していくはずだ。宇宙的胎児を新しく身籠ること。母親になること。
 
女なるものへの生成変化―とは、このことを言う。

宇宙的胎児