1月 8 2016
反重力的なものへ
重力や電磁力が物体に作用する力と思い込んでいる人たちが多いが、それは同時に僕らの精神にも作用している。シモーヌ・ヴェイユがかつて言ったように、重力は物体を落下させるだけではなく、僕らの精神をも落下させている。
人間とは本来、この落下に抗うべき存在として生きる者のことを言う。言うなれば反-自然的存在なのだ。ヴェイユはそれを恩寵と呼び、重力に対する光の働きの意味を持たせた。
重力と光の界面で今日も人は生きる。
重力とは存在の力だ。すべての存在者は重力のもとに姿を表す。在るものを在らしめている力があからさまに露呈したとき、わたしたちはそれを「ない」と呼んでいる。存在は人間の世界には「ないこと」として現れるのだ。すなわち「無」。落下とは限りなく、この無へと漸近していく運動のことをいう。
物理的力は言うまでもなく、経済力、軍事力、政治力等、今の人間が力と呼ぶものは、そのほとんどがこの無への欲動が作り出している。そこにヴェイユのいう恩寵はない。
重力が偽神の力であるということをわたしたちは見破らないといけない。「すべてが一つ」などといった戯言を言わせているのもこの偽神だ。反重力的に生き、反重力的に他者と接していくこと。そこに真の意味での力への意志があり、その力の意志のもとに恩寵の光がある。
誤解を生まないように一つだけ補足しておこう。「すべてが一つ」と宣言できるのは、すべてを創造し、真の無へと至った者のみだということ。そして、その言葉はもちろん沈黙として訪れるということ。
空
2016年1月9日 @ 21:43
さらりと書いていらっしゃいますが、
どれほどの方がこの話を理解出来ているのだろう。
もちろん私も、私のレベルまでしか理解出来ていないのだけれど。
たぶん私の理解の遥か上を行っているため、私の捉え方が間違えているかもしれないのだけれど。
凄い事をおっしゃっていると思いました。
私の解釈では、
「無」も「ワンネス」も2つあると云うことになりました。
真の神が、『む』だとして、
そこに「重力」という偽神がやってきた。
この偽神が、『む』に「重力をかける」ことで、「本来の位置に就いていた人間」が浮かび上がってしまった。
「あら、出てしまいましたわ」
ならば、「この位置がベストかもしれない」と思いました。
わたしが『む』に留まったままでいる事で、重力に対して自立することになる。
ここで、わたしの反対側が「体験」として現れている。
しかし「わたしはそのままの状態で自立している」
この姿こそが「真の神の化身」に成っているのではないだろうか。
そして「ここで自立しているもの同士」は、同じ『む』として同調しているはず。
しかし、偽神の「無」、すなわち重力に流されてしまうと、本来の「真の神の『む』」から外れてしまい、「偽神の無=ない」と同調をし始めてしまう。
ここでも、「重力に押し潰されているもの同士」、そのもの同士で同調している。
だから、ここでのワンネスは「偽神の世界のワンネスになっている」ということ。
ここまで来たら、あとは、『むの船』に乗るのか、「無の船」に乗るのか。
どっちの「船」に乗るのか? ではないかと思いました。
間違えていましたら、申し訳ありません。
空
2016年1月11日 @ 16:10
誤解をしていました。
「すべては一つ」は、1つでしたね。