12月 25 2015
客観と主観の狭間で
霊性を意識して生きようと努めれば努めるほど、意識の外向性と内向性の葛藤は強くなってくる。その葛藤に嫌気がさして内的世界に引き蘢る人たちも少なくはないだろう。こういうとき物知り顔のグルたちは「社会的個と精神的個のバランスを取れ。バランスが大事なのだ」と常套句でハッパを掛けてくる。
正しいことを言ってそうだが、これは間違っている。「本当は徹底的に内的になれ!!」でいいのだ。そして、徹底的に内的になった先に外的なものへの開きがある。その開きにおいて人は内的であることと外的であることが全く同じことであることを知る。そこでのバランスはもはや葛藤ではなく調和である。
別の言葉で表現してみよう。主観と客観は常に対立する運命にある。それらは「最終的に一致するのだ」とヘーゲルのように嘯いてはダメだ。そういった一致は化け物しか生み出さない。なぜなら、これらは受動的な主観であり、客観にすぎないからだ。無意識に手玉に取られている。
徹底して内的になるという選択を、ここでは能動的主観と言い換えてみよう。この能動的主観が力を持ってくると、そこに必ず能動的客観というものが育ってくる。それが「外的なものへの開き」が意味することだと思うといい。
この能動的客観のもとに出現してくるのが「もの」だ。これは受動的客観のもとに現象化していた「物質」とは全く違う存在だ。
この「もの」は能動的主観が持った内的樹液に満たされており、また、他者の内的樹液との交感をも果たし、そこで内震えている。つまり「ある(存在)」ではなく、「なる(生成)」と化している。
こうした、意識の「受動的組織化」と「能動的組織化」の違いは、思考される空間の質の違いから生まれている。それが「幅」と「奥行き」なのだ。空間の質を延長から持続へと変えること。そして、その持続のもとで新しい知性を出現させること。それによって、意識は能動的なものへと転身を諮ることができてくる。
能動的客観を通して立ち現れてくる「もの」の世界は,おそらく無尽蔵のホスピタリティ(歓待)で溢れていることだろう。それを現実のものとするためにも、僕たちは世界をまずは奥行きで満たされた空間に変えていかなくてはならない。
海
2015年12月26日 @ 01:54
いつも興味深く読ませていただいています
>本当は徹底的に内的になれ
陰極まれば陽に転じるといいますが、弱い魂だと闇に耐え切れず鬱で死んでしまいます(笑)
禅病というか
でも、突破口は自力と他力の端っこにしかないのでしょうね
来年も良き探求を
岡田武
2015年12月28日 @ 20:37
当方のブログ解析のアクセス源検索からこのページへ参りました。岡田と申します。専門は美術、工芸です。折角ですからコメントを残します。
ヌ―ソロジーは私にはよく解りませんが、もし、その理論が大森荘蔵の「面体分岐」をベースにされているのであれば、再考をお勧めします。
何故なら私は大森の「面体分岐」に強く疑問を感じるからです。
そもそも「面体分岐」が成立するには視点の設定が必要です。
つまり、幅と高さを持つ正面と、その各点を起点にした無限遠点に続く奥行は、ここから見たという任意の視点の設定が必須条件です。直交座標でいえば0の設定であり美術史でいえば遠近法であり一点透視法です。
しかし考古学的に言えば、千年以上続いた日本の絵に、西洋に教えを乞うまで視点を持った絵は一切存在しなかったという証拠があります。遠近法はなかったのです。
絵とは一般的に知覚認識された世界を描くということが基本であるとすれば、視点の設定それ自体が我々に与えられた普遍的なものであるかどうかは疑問の余地が大いにあると私は思っています。
大森荘蔵、あるいは貴方もそうかも知れませんが、その個的な知覚認識を一般化し、あるいは即自とし、そこから論を始めるという間違いを犯していると思います。個的な視覚を一般化する根拠など何処にもないのです。
主観客観でいえば、考古学的にいって、これも視点の設定と連動しています。その観点から、視点の設定により主観客観という概念が生じたと私は考えています。
考えてみれば、大森も言うように、主観客観二元論は変であり不健全です。何せ、私が見るこのビジョン、例えば、高台から眺める夕日に照らされる町という光景には、それ自体、主観と客観という対立する二つの要素から成り立つということになります。…これは変でしょう。まるでキリスト教の原罪です。
何故、貴方を含めた多くの人は、あるいは、日本の哲学者でさえ、この原罪を信じ、それを持ってそこからスタートするのか理解に苦しみます。この原罪こそ改めて精査し、抹消すべきものだと私は考えています。
kohsen
2016年1月7日 @ 14:30
岡田さん、こんにちは。
ヌーソロジーの哲学的ベースはベルクソン=ドゥルーズです。
ベルクソン=ドゥルーズを通すと、大森の「面体分岐」はよく理解できる、という話をしています。
「面体分岐」という表現はあまりに粗雑で、誤解を招きやすいですから。。
大森が言う「面」とは、ドゥルーズに即して言えば、差異です。時空の同一性に含まれるものではありません。
つまり、この「面」は3次元空間の断面としての面ではないということですね。
「面体分岐」という表現のせいか、そういう解釈をしている人が多いのですが、大森の言わんとするところは全く違います。
大森も何度も言ってるように、この「面」は知覚正面の「面」ですから、主観に固有の「面」なんですね。
ドゥルーズの「差異」という観点から、ヌーソロジーはこの面の在り処を複素空間内に見ています。
わたしたちの真の視点は無限小の内包空間にあるという意味です。
「個的な視覚を一般化する」というよりは、むしろ特異化させています。
特異化は持続を含むので、そこに大森は「こころ」を見ているのだと思っています。
日本の絵画空間の場所もまさにこの内包的な持続の中にあると言っていいのではないでしょうか。
その意味でも、岡田さんのおっしゃっていることと同じ方向を向いていると思いますよ。
空
2016年1月1日 @ 20:08
この記事を理解するには、これを体験しないとなかなか難しいかもしれませんね。
広宣さんは、これを体験していらっしゃるはず。
そうでないとここまでの表現は出来ないと思います。
「能動的主観」とは、「無でありながら、有」が観ている状態。のような感じではないかと思いました。
そこにはちゃんと思考に似た「洞察(これが観ている)」があるように思います。
ここから観ているのが「奥行き」ではないかと思っています。
「そこから観たモノは、活き活きと生きていて、それぞれに自立しており、ホスピタリティに溢れている」
これが体験出来た者は、「広宣さん、おっしゃる通り」ということになるのでしょう。
いつも素晴らしい記事やツイッターをありがとうございます。
kohsen
2016年1月7日 @ 14:34
空さん、コメントありがとうございます。
日本の古代心性である「もの」の世界観を何とか現代に甦らせたいと思っています。
今年もよろしく願いします。