カタカムナ人の知性の美しさ

奥行きに持続体を感じ取る思考はもはや対象を持たない。思考することと思考されるものが一致を見るのであれば、そこに現れるものは純粋思考とも呼ぶことができるだろうし、純粋物質と呼ぶこともできる。この純化(カタルシス)の名において初めて思考と物質は一致を見ることができるのだ。
 
おそらく幾何学の本質はこの純化にある。この純化された幾何学体はおそらく始まりの顔と終わりの顔という二つの顔を持っている。始まりの顔とは物質を織る糸として役割を果たす顔であり、終わりの顔とは織り込まれた物質の記憶を保存する零度の記憶=想起の器としての顔である。
 
それゆえ宇宙=生成はこの純化された幾何学的運動のウロボロス的円環からなるとも言えるのだが、この始まりと終わりの繫ぎ目には円環の外部を志向する「無」への欲望もセットされている。それが接線として出現する直線化のパトスと考えるといいだろう。われわれの身体とはこの接点の断面である。
 
無を破壊することは果たして可能だろうか。存在に無限遠点の一点を穿ち、幾何学に純化をもたらすことは果たして可能だろうか。純粋思考と純粋物質を持って新しいカタルシスを世界にもたらす者——新時代のカタリ派たち(注*カタリ派とは13世紀に十字軍によって虐殺された最後のキリスト教グノーシスの一派)の登場がここは是非とも待ち望まれるところだ。
 
カタカムナでは主体は〈クニツトコ〉と呼ばれ、それはアマウツルマリであったという。一方、客体は〈クニツマリ〉と呼ばれ、それはアマヤドルマリでもあったという。そして、この二つのマリのトコタチ(ソギタチ=収縮とソコタチ=膨張の正反の逆性の互換重合)によって表されたのがマトマリとしての「モノ」とされた。
 
OCOT情報では主体の場所は〈垂質〉とも呼ばれ、それは身体から広がる時空のことを意味する。一方、客体は〈垂質の反転〉と呼ばれ、それは時空そのものが広がりから一転、収縮を行なったものである。これら両者は複素平面上の実軸と虚軸にスピノルとして縮約され、両者は位置の変換(SU(2)変換)によって等化され、物質(モノ)の基礎となる「球精神=陽子」を構成する。
 
カタカムナ人の思考とOCOT情報が持った主客概念に対する見方が全く同じだということに今更ながら驚いている。それにしても、アマウツルマリとアマヤドルマリという表現の美しさには心から感嘆させられる。ほんとに見事!!としか言い様がない。
 
自己と他者はモノの外部と内部という関係の中で位置を与えられており、双方からトコタチ(両者の間の互換重合)を諮っている。この二つのトコタチが、クニノトコタチとアマノトコタチの本質である。そしてこの二つのトコタチこそが物理学がゲージ対称性と呼んでいるものの本質にほかならない。トコタチとは「対称性変換」の異名なのだ。
 
外部が収縮して内部に入り込む性質を空間が持っているということ。こうした性質は奥行きとして達成されているということ。そのとき、奥行きは持続としての働きに変容しているということ——こうした超古代的な空間感覚を発芽させる時代へと人類は再び、回帰してきている。それが覚醒期というものなのだろう。新しいカタルシスの出現の胎動を日々、強く感じている。

カタルシス