自分の中のささやかなる生の部分

僕の会社の通信誌「ブロッサム」のコラム原稿done。今回は邦人人質事件について書きました。
 
会社の方の要望で書いたのだけど、やっぱり、政治的なことを語るのは抵抗がある。自分が自分でなくなっていく感覚がある。

明日(2/14)は福岡ヌースレクチャー。ドゥルーズ哲学とヌーソロジー(前編)をやります。政治的なものとヌース的なもののギャップが凄すぎて、頭を切り替えるのが大変(笑)。
 
モノをSO(3)的認識ではなく、SU(2)的認識で捉えること。そこではモノがすべての人間を等化している。そこでは風景の方が、君であれ、僕であれ、内包して在る。僕たちは別の誰かであってもよいような同じ誰かに変身している。マテリアル(知覚対象)における同じ結果としての人間。。
 
安倍政権が推進する積極的平和外交とやらの話も事態が事態だけに注意を払う必要があるのだろうが、やはり、僕は自分に素直に生きることしかできそうもない。
 
——毎日のようにとてつもない量の言葉や映像が押し寄せてきては君の回りを包囲する。君は致し方なく、それらを自分のうちに招き入れるだろうが、そのうち、それらは君を浸食し、君を疲弊させ、揚げ句の果てに君から君自身を奪い取る。「マトリックス」のセンチネルのように薄気味悪い生き物たち——。
 
君自身とは本来、見えないものであるということを忘れてはいけない。見えないものは可視化することや言語化することが度をすぎると、死滅へと向かう。見えるものや言葉を追うのではなく、世の中の何も入ってくることができない自分だけの聖域を作ろう。
 
それだけが、日ごとに汚染されていく見えないものを浄化することができる。反時代的に感じて、反時代的に思考して、反時代的に生きている、自分の中のささやかな生の部分をもっともっと大事にすること。
 
僕にとってのヌーソロジーというものも、おそらくそういうものじゃないかな、と思ってる。

Matrix Revolutions