3次元球面の風景

強度的空間の入口としての奥行き。運動量空間。奥行きの幅に対する直交性は位置空間に対する運動量空間の直交性に同じ。局所的位置に対する見るものと見られるものの関係に同じ。位置空間はイメージ、運動量空間は持続。

空間をわれわれの内在性として見るための概念を多数、構築すること。そして、その概念を量子構造と重ね合わせること。それによって物理学の意味と価値を異なる仕方の中で解釈すること。そして、この解釈の体系に内的一貫性を持たせること。これのみが意味の反-実現化のための唯一の方法である。

現在の物理学は力の単なる名目的定義に終わってしまっている。力の根拠があまりに不明確なのだ。世界像の崩落はこの力の根拠の不明確性に由来している。力を実在的に定義できる思考が必要だ。それのみが哲学と物理学との接合を可能とし、トランスフィジカルな新しい思想を作り出す。

「主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中におかなくてはならない。このねじれこそが、まさに世界と魂の襞を構成する(『』p.47)」とドゥルーズは言う。世界の中にある主体と、主体の中にある世界。この相互反転性をストレートに空間の中にイメージできるようになること。

ドゥルーズのいうこの「捻れ」が微視的領域に現れたものがuクォークとdクォークではないかと考えている。すなわち、主体における「前」と「後ろ」。

3次元球面を通常の2次元球面の延長線上に考えても、その実質は決してつかめないと思う。3次元球面上の一点は主体の観点以外にはあり得ない。観点の自転が+∞と−∞を接続させている。

モノが3次元球面に見えてきたとき、認識は時間と空間の発生場所を知ることになるのだろう。そして、おそらく、そのときモノは単一の存在として現れる。それはもはやモノの観念のカタチと呼ぶべきだろうか。あらゆる記憶はこのモノの観念の中を横行している。個別のモノはこの記憶との対比で認識される。

単一の存在としてのモノは個別の存在としてのモノへと射影されているのだ。そして、この単一の存在としてのモノが、われわれが陽子と呼んでいるものの正体ではないだろうか。

モノをあたかも外側から包摂するように見えているわれわれの認識は、実はそのままモノの内包性へと滑り込んでいる。この空間を切り開くことが、今からの人間の思考の方向性とならなくてはいけない。そして、そこに自らの内在としての生を見出すこと。

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