S博士による「ヌーソロジー理解のための数学教室」は最終的にヌーソロジーを学ぼうとしている皆さんにSU(2)[エスユーツーと読みます]という群の理解をできるだけ正確にしてもらおうという意図で企画したレクチャーです。SU(2)というのは群論という数学の分野に登場する概念で、複素2次元空間における回転群とされているもののことです。複素2次元空間とは互いに直交する2本の実軸と2本の虚軸によって構成される4次元空間のことと考えて下さい。普通、4次元空間というと、四本の実数軸で構成されるわけですが、複素2次元空間としての4次元というのは、そのうち2本が虚数軸になっているという違いがあります。そして、この空間での回転がどういう構造を持つものなのかをまずは数学的に押さえようという主旨です。
人間の霊性を考えるのに、どうしてこんな小難しい数学的概念が必要になるのか、と訝しがれる方も多いかもしれません。僕がこのSU(2)という群の概念にこだわっている理由は、宇宙の創造の基盤となる根底的な2元性が自己と他者の2元性にあるのではないかと考えているからで、かつ、この自己-他者存在が構成されるための最も根源的な場の形式が数学では複素2次元空間として表現されているのではないかと狙いをつけているからなんですね。
科学的思考はすでに、地球から遠く離れた別の惑星に探査衛星を送るといったことまでも容易にやってのけるようになりました。しかし、一体どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。科学者たちは衛星を目的地に送るために必要な物理法則をすべて列挙して、何度もコンピュータでシュミレーションを行います。そして、その結果としてミッションは成功する。しかし、実際に目的地で実験を重ねているわけではありません。すべてが頭の中の数学的観念の組み立てによるものであり(コンピュータとて同じ)、それを現実の世界で実行に移しているだけです。それなのに衛星は彼らの予測通り遠い惑星にまで到達し、予測通りの軌道に乗る。これは考えてみれば実に不思議なことです。ここには経験を介さずとも思考の力のみによって外の世界の本質を捉える力が働いていることが分かります。この力が一般に「理性」と呼ばれているものです。理性の中で働いている数学の論理性が経験以前に人間の「真」の確信を保証している。そのようなことがここでは起きています。いわゆるカントのいう「アプリオリ=超越論的」というやつです。
「対象に認識が従う」のではなく「認識に対象が従っている」——これがかの有名なカントのコペルニクス的転回というものでした。カントは理性の働きをアプリオリな総合判断として、人間が持った意識の玉座に据えました。しかし、理性を玉座に添えるのはいいとしても、それだと、理性が持ったこのアプリオリな性格に対して理性自体は何一つ思考できないということになってしまいます。カントが哲学で為したことも、理性の権利の行使に関するこうした制限でした。これによって哲学は形而上的なもの、すなわち神や霊性に対しての思考を断念せざるを得なくなったのです。理性にその権利はない、というわけです。
しかし、20世紀に入って、形而下であるはずの自然界の中からも理性の力が及ばないものが登場してきます。それが素粒子です。皆さんもよくご存知のように、素粒子の世界では不確定性原理というものが働いていて、通常の物体のように、位置と速度(運動量)を同時に測定することができません。つまり、素粒子は通常の物体のような存在ではないということです。そして、それを記述する数学にも一つの顕著な特徴があり、運動方程式が複素数でしか表現できないことです。それまで自然界で計測されていた物理現象はほぼ実数で記述することが可能でした。ですから、素粒子という現象の発見は自然を理性の対象として見ることに自然自体が異議申し立てをしてきたような出来事とも言えるのです
しかし、科学者たちの理性はこの差異を真剣に思考しようとはしなかった(アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなど、量子力学の開拓者たちは熱心に議論していたのですが、戦争でそれは頓挫してしまいました)。そのあとを引き継いだ科学者たちは「理性が玉座」の方針を変えようとはせず、この正体不明の素粒子を古典的な物体と同じように操作可能な対象として見なし、結局、核エネルギーという自分たちでも制御不可能な化け物を生み出してしまいました。素粒子の世界ではもはや対象は認識には従っていないことを重々承知しているにも関わらず、です。
自然の根底に理性では理解不能な正体不明の力がうごめいているということ。このことに僕らはもっと畏敬の念を払わなくてはなりません。何度も言うようですが、そこでは対象はもはや人間の認識に従って動いてはいないのです。極端な話、僕なんかはカントのコペ転をもう一度、引っくり返す時期にやってきているのではないかと強く感じています。「カントは間違っている。やはり、認識は対象に従っている」のだと。
もちろん、ここでいう対象とは従来の感性的な対象といったものではなく、複素数として表現されている素粒子のことです。実は、素粒子に認識は従っている。いや、もっと言えば、素粒子こそがわたしたちのアプリオリの正体そのものなのだ、と。こうした新しい認識にたどり着くことによって、人間は狭隘な理性の呪縛を抜け出し、認識が自らのアプリオリ自体を認識するという全く新しい局面へと入っていくことができるのだと思います。それは言い換えれば、「認識と対象の見紛うことのない一致」と言ってもいいでしょう。これはカントが晩年に夢見た「もの自体」の認識に当たります。理性を超えた霊的知性(ヌース)が再び、意識の玉座につくのです。
素粒子の中に人間の認識と自然とをつなぐ秘密の根源が隠されています。多くの人が自らの霊性を奪回していく上でも、素粒子に対する理解、ならびにその数学的形式としての複素数の理解は大きな力になっていくのではないかと確信しています。
9月 2 2014
今、なぜ、複素数なのか——
S博士による「ヌーソロジー理解のための数学教室」は最終的にヌーソロジーを学ぼうとしている皆さんにSU(2)[エスユーツーと読みます]という群の理解をできるだけ正確にしてもらおうという意図で企画したレクチャーです。SU(2)というのは群論という数学の分野に登場する概念で、複素2次元空間における回転群とされているもののことです。複素2次元空間とは互いに直交する2本の実軸と2本の虚軸によって構成される4次元空間のことと考えて下さい。普通、4次元空間というと、四本の実数軸で構成されるわけですが、複素2次元空間としての4次元というのは、そのうち2本が虚数軸になっているという違いがあります。そして、この空間での回転がどういう構造を持つものなのかをまずは数学的に押さえようという主旨です。
人間の霊性を考えるのに、どうしてこんな小難しい数学的概念が必要になるのか、と訝しがれる方も多いかもしれません。僕がこのSU(2)という群の概念にこだわっている理由は、宇宙の創造の基盤となる根底的な2元性が自己と他者の2元性にあるのではないかと考えているからで、かつ、この自己-他者存在が構成されるための最も根源的な場の形式が数学では複素2次元空間として表現されているのではないかと狙いをつけているからなんですね。
科学的思考はすでに、地球から遠く離れた別の惑星に探査衛星を送るといったことまでも容易にやってのけるようになりました。しかし、一体どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。科学者たちは衛星を目的地に送るために必要な物理法則をすべて列挙して、何度もコンピュータでシュミレーションを行います。そして、その結果としてミッションは成功する。しかし、実際に目的地で実験を重ねているわけではありません。すべてが頭の中の数学的観念の組み立てによるものであり(コンピュータとて同じ)、それを現実の世界で実行に移しているだけです。それなのに衛星は彼らの予測通り遠い惑星にまで到達し、予測通りの軌道に乗る。これは考えてみれば実に不思議なことです。ここには経験を介さずとも思考の力のみによって外の世界の本質を捉える力が働いていることが分かります。この力が一般に「理性」と呼ばれているものです。理性の中で働いている数学の論理性が経験以前に人間の「真」の確信を保証している。そのようなことがここでは起きています。いわゆるカントのいう「アプリオリ=超越論的」というやつです。
「対象に認識が従う」のではなく「認識に対象が従っている」——これがかの有名なカントのコペルニクス的転回というものでした。カントは理性の働きをアプリオリな総合判断として、人間が持った意識の玉座に据えました。しかし、理性を玉座に添えるのはいいとしても、それだと、理性が持ったこのアプリオリな性格に対して理性自体は何一つ思考できないということになってしまいます。カントが哲学で為したことも、理性の権利の行使に関するこうした制限でした。これによって哲学は形而上的なもの、すなわち神や霊性に対しての思考を断念せざるを得なくなったのです。理性にその権利はない、というわけです。
しかし、20世紀に入って、形而下であるはずの自然界の中からも理性の力が及ばないものが登場してきます。それが素粒子です。皆さんもよくご存知のように、素粒子の世界では不確定性原理というものが働いていて、通常の物体のように、位置と速度(運動量)を同時に測定することができません。つまり、素粒子は通常の物体のような存在ではないということです。そして、それを記述する数学にも一つの顕著な特徴があり、運動方程式が複素数でしか表現できないことです。それまで自然界で計測されていた物理現象はほぼ実数で記述することが可能でした。ですから、素粒子という現象の発見は自然を理性の対象として見ることに自然自体が異議申し立てをしてきたような出来事とも言えるのです
しかし、科学者たちの理性はこの差異を真剣に思考しようとはしなかった(アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなど、量子力学の開拓者たちは熱心に議論していたのですが、戦争でそれは頓挫してしまいました)。そのあとを引き継いだ科学者たちは「理性が玉座」の方針を変えようとはせず、この正体不明の素粒子を古典的な物体と同じように操作可能な対象として見なし、結局、核エネルギーという自分たちでも制御不可能な化け物を生み出してしまいました。素粒子の世界ではもはや対象は認識には従っていないことを重々承知しているにも関わらず、です。
自然の根底に理性では理解不能な正体不明の力がうごめいているということ。このことに僕らはもっと畏敬の念を払わなくてはなりません。何度も言うようですが、そこでは対象はもはや人間の認識に従って動いてはいないのです。極端な話、僕なんかはカントのコペ転をもう一度、引っくり返す時期にやってきているのではないかと強く感じています。「カントは間違っている。やはり、認識は対象に従っている」のだと。
もちろん、ここでいう対象とは従来の感性的な対象といったものではなく、複素数として表現されている素粒子のことです。実は、素粒子に認識は従っている。いや、もっと言えば、素粒子こそがわたしたちのアプリオリの正体そのものなのだ、と。こうした新しい認識にたどり着くことによって、人間は狭隘な理性の呪縛を抜け出し、認識が自らのアプリオリ自体を認識するという全く新しい局面へと入っていくことができるのだと思います。それは言い換えれば、「認識と対象の見紛うことのない一致」と言ってもいいでしょう。これはカントが晩年に夢見た「もの自体」の認識に当たります。理性を超えた霊的知性(ヌース)が再び、意識の玉座につくのです。
素粒子の中に人間の認識と自然とをつなぐ秘密の根源が隠されています。多くの人が自らの霊性を奪回していく上でも、素粒子に対する理解、ならびにその数学的形式としての複素数の理解は大きな力になっていくのではないかと確信しています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), カント, シュレディンガー, 素粒子, 複素2次元空間, 複素数