資本主義の未来

「前は見えるが、後ろは見えない。後ろは想像的なものであり、鏡の中の世界だ」といつも言ってる。時間についてもおそらく同じことが言える。「過去は見えるが、未来は見えない。未来は想像的なものであり、鏡の中の世界だ」。

もし未来が鏡の中の世界だとすれば、過去から未来へと流れていく時間に乗っているかぎり、永久に鏡の中から出られないということになる。ここは「時間は過去から未来にというよりも、むしろ未来から過去に向かって流れている」と考えた方が時間の真実により接近できるのかもしれない。

シュタイナーは確か過去から未来へと流れる時間のことをエーテル的時間、一方、未来から過去へと流れる時間のことをアストラル的時間と呼んでいた。ドゥルーズ的に言えば前者が一般性としての時間、後者が特異性の時間ということにでもなろうか。未来は経験の外にあるので一般化されているが、過去は経験の内にあるので特異的であるといったような意味だ。

問題はやはり過去と未来を分け隔てている「現在」という「あいだ」にあるのだろう。ここには流れとは呼べない中空の穴が空いている。現在は流れるが流れない。こうした現在そのものの性質が中空的なのだ。ここは時間の流れから見れば一瞬だが、「あいだ」自身から見れば永遠となっている。物理学でいうなら時空と複素空間の接点。時空の一点一点には内部空間が張り付いている云々とされるヤツだ。

この過去と未来の間に埋まっている永遠を木村敏のように「祝祭の時間」として考えることは確かに面白い。アストラル的時間に意識を偏向させすぎた人にとっては、祝祭の時間が待ち遠しくてたまらない。それが来るのか来ないのか「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚というやつだ。この手の人たちは主観的時間感覚が強いので持続世界に無意識のうちに触れて、それが浮上してくる真の未来の到来を無意識のうちに感じ取っている。だから、「まもなく人間は意識進化する」とか「アセンションはすでに始まっている」とか言って騒ぎ立ててしまうのだが。。ワシもおそらくその部類だろうか(笑)。

一方、エーテル的時間に意識が偏向している人は現在=「祝祭の時間」は過ぎ去ってしまったものでもう二度と戻ってこないという感覚の中に生きている。こちらは「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚というやつだ。祝祭はもう終わったのさ。意識進化?馬鹿なことを言うな。未来は延々と続いていくんだよ。というように、物理的時間の中に引きこもってしまう人たちの習性とでも言おうか——。

木村敏は「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚が極端化したのが分裂病(統合失調症)で、「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚が極端化したのが躁鬱病だと考えた。

ドゥルーズ=ガタリは資本主義と分裂症の関係を鋭利に分析したが、資本主義が未来を投資や投機という名目によって貨幣で覆い尽くしている現状を考えれば、「資本主義と鬱病」というタイトルのもとにもっと資本主義分析がなされてもいいように思う。エーテル的時間の流れに身を任せて、未来を貨幣で売買することは、それそのものが躁鬱病だ。吉田拓郎ではないが、「祭りの後のむなしさ」が資本主義の原動力となっているのだ(ふるっ 笑)。

躁状態と鬱状態の間で絶えず反復を繰り返す資本主義の欲望。この欲望の力を現在から垂直に切り立つ宇宙的祝祭の時間の方向へと誘導する方法論を何とか発明したいものだ。

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