神の外部への光の流出と、内部へのその再帰的な光の回収。この循環がネオプラトニズムの流出論の骨子だったように記憶しているが、ルーリアカバラはこの内部性への光の回収のルートが粉々に粉砕されていると考えた。これがルーリアのいう「器の破壊」の意味するところだ。
なぜ、器は破壊されてしまったのか——ルーリアに拠れば、それはコクマー、ビナー、ケテルという最上位の容器の光輝があまりに強烈で目映かったためだと言われる。強い光は失明を伴う。光の流出の過剰が光の回収のルートを見失わせてしまったというわけだ。
OCOT情報はこのカバラ的事件に関して次のように伝えてきている。存在はオリオン、シリウス、プレアデスという存在の基底となる力が三つ巴で流動している。「光の流出」とはオリオンがプレアデスと結合する場所性のことである。光の諸力は一気にプレアデスへと流れ込み、プレアデスはこのオリオンからの光を受容する。
ここに能動的光と受動的光という二つの光の種族が生まれ、この二つの諸力による結合が生じる。この両者間の結合力のために、プレアデスからオリオンに至るまでの中間領域であるシリウスは一つの残響のような形でかすかな痕跡しか残さない。このシリウスが言うまでもなく、光が回収されるルートのことである。
オリオンとプレアデスの結合部分はカバラのセフィロト(生命の樹)で言えばそれぞれケテル(最も下位のセフィラー)とマルクト(最も下位のセフィラー)に当たる。カバラにおいてはこのマルクトは「神の花嫁」とも呼ばれており、最上位のセフィラーであるケテルはこのマルクトと一つの頑な性愛で結ばれているわけだ。
そして、ここで交わされている神とその花嫁の間の盲目的なエロスの力が、結果的に、光の回収への循環方向を抑止する力となっている。存在の父性による母性の拘束とでも言おうか、ユダヤ的一神教の精神(神と人間の契約というイマージュ)の由来がここにあると考えていい。
ルーリアはその意味で言えば、ユダヤ内部から現れたこうしたユダヤ的思考の刷新者でもあり、ルーリアカバラはそれまでのカバラに対しての反カバラ的運動と言っていいように思う。ケテルは常にマルクトと共にあるのであって、地上は至高の天と結びついているのだ。となれば、それは反復して到来する「原初」の場所と言ってもよいことになる。だからこそルーリアは言う。原初の光においては悪が混じっていた、と。
ここでいう「悪」とはマルクト以外のセフィロトが全く見えなくなってしまい、世界はすべて物質でできていると考える物質的思考のことと考えていいように思う。ルーリアカバラではクリフォト(殻)と呼ばれているものだ。
このクリフォトは今風に言えば時空のイメージに近い。マルクトに流れ込んでいるケテルの一者的な力がこの時空の同一性を担保しているのだが、これはマルクトを覆う一者の遺影のようなものと考えていいだろう。グノーシスにいうデミウルゴスだ。
では、神が再び光の回収を行うための容器の再生はいかにして行われるのか——当然、そのためにはケテルとマルクトの結合を断ち切らなくてはならないのだが、これがルーリアカバラでは「神の撤退」という表現で言い表されることになる。ここに生起するのがツィムツーム=収縮というルーリアが提起する革新的な概念である。神は創造の原初に一点へと引きこもるというのだ。
時空の中に囚われの身となっている光を文字どおり収縮させて、容器の再生へと向かわせること。OCOT情報はこうしたルーリアの概念を「核質の解体」と呼んている。「核質」とはオリオンとプレアデスの結合位置に生まれている結節の力のようなものである。この「核質」を解体させることを同時に「人間の意識の顕在化」とも呼んでいる。
OCOT情報の文脈では核質が解体を起こすと「無核質」という力が生まれてくるのだが、この力が働く場所がシリウスと呼ばれている。この場所性はルーリアカバラでいうイエッツェラー(生成界)に対応している。イェッェラーの中心となるのはティファレトと呼ばれるセフィラーだ。伝統的にはこのセフィラーは「太陽」として解釈されている。つまり、シリウスが太陽を生成する場所になっているということだ。
まぁ、いろいろと書いてきたが、こうした神秘主義的な概念を象徴体系のもとにただひたすら思考したとしても、それこそ現代の科学的世界観から見れば、超越的トンデモにしか見えないだろう。象徴は方向を指し示すことはできるが、そこに進ませる力が欠けている。概念が不足しているのだ。概念を生産しなくてはならない。それもマルクトの内部から、マルクト自身のはらわたを突き破るような形で。科学的知識の内部から科学的知識を突き破るような形で。
ヌーソロジーが語る「奥行きの覚醒」は、このルーリアのツィムツームとダイレクトにつながっている。光を受け取るのではなく、光を与える者へと変身を遂げていくこと。光から逆光への転身をはかること。奥行きの覚醒とは能動的光の発振が始まっている位置のことでもあるということ。
ルーリアカバラに関する私見については以前ブログの方でも詳しく書いたことがあります。長文ですが興味がある方は参照して下さい。
カバラは果たして信用できるのか?
5月 30 2014
ルーリアの遺産——ユダヤ的一神教における反ユダヤ的思考
神の外部への光の流出と、内部へのその再帰的な光の回収。この循環がネオプラトニズムの流出論の骨子だったように記憶しているが、ルーリアカバラはこの内部性への光の回収のルートが粉々に粉砕されていると考えた。これがルーリアのいう「器の破壊」の意味するところだ。
なぜ、器は破壊されてしまったのか——ルーリアに拠れば、それはコクマー、ビナー、ケテルという最上位の容器の光輝があまりに強烈で目映かったためだと言われる。強い光は失明を伴う。光の流出の過剰が光の回収のルートを見失わせてしまったというわけだ。
OCOT情報はこのカバラ的事件に関して次のように伝えてきている。存在はオリオン、シリウス、プレアデスという存在の基底となる力が三つ巴で流動している。「光の流出」とはオリオンがプレアデスと結合する場所性のことである。光の諸力は一気にプレアデスへと流れ込み、プレアデスはこのオリオンからの光を受容する。
ここに能動的光と受動的光という二つの光の種族が生まれ、この二つの諸力による結合が生じる。この両者間の結合力のために、プレアデスからオリオンに至るまでの中間領域であるシリウスは一つの残響のような形でかすかな痕跡しか残さない。このシリウスが言うまでもなく、光が回収されるルートのことである。
オリオンとプレアデスの結合部分はカバラのセフィロト(生命の樹)で言えばそれぞれケテル(最も下位のセフィラー)とマルクト(最も下位のセフィラー)に当たる。カバラにおいてはこのマルクトは「神の花嫁」とも呼ばれており、最上位のセフィラーであるケテルはこのマルクトと一つの頑な性愛で結ばれているわけだ。
そして、ここで交わされている神とその花嫁の間の盲目的なエロスの力が、結果的に、光の回収への循環方向を抑止する力となっている。存在の父性による母性の拘束とでも言おうか、ユダヤ的一神教の精神(神と人間の契約というイマージュ)の由来がここにあると考えていい。
ルーリアはその意味で言えば、ユダヤ内部から現れたこうしたユダヤ的思考の刷新者でもあり、ルーリアカバラはそれまでのカバラに対しての反カバラ的運動と言っていいように思う。ケテルは常にマルクトと共にあるのであって、地上は至高の天と結びついているのだ。となれば、それは反復して到来する「原初」の場所と言ってもよいことになる。だからこそルーリアは言う。原初の光においては悪が混じっていた、と。
ここでいう「悪」とはマルクト以外のセフィロトが全く見えなくなってしまい、世界はすべて物質でできていると考える物質的思考のことと考えていいように思う。ルーリアカバラではクリフォト(殻)と呼ばれているものだ。
このクリフォトは今風に言えば時空のイメージに近い。マルクトに流れ込んでいるケテルの一者的な力がこの時空の同一性を担保しているのだが、これはマルクトを覆う一者の遺影のようなものと考えていいだろう。グノーシスにいうデミウルゴスだ。
では、神が再び光の回収を行うための容器の再生はいかにして行われるのか——当然、そのためにはケテルとマルクトの結合を断ち切らなくてはならないのだが、これがルーリアカバラでは「神の撤退」という表現で言い表されることになる。ここに生起するのがツィムツーム=収縮というルーリアが提起する革新的な概念である。神は創造の原初に一点へと引きこもるというのだ。
時空の中に囚われの身となっている光を文字どおり収縮させて、容器の再生へと向かわせること。OCOT情報はこうしたルーリアの概念を「核質の解体」と呼んている。「核質」とはオリオンとプレアデスの結合位置に生まれている結節の力のようなものである。この「核質」を解体させることを同時に「人間の意識の顕在化」とも呼んでいる。
OCOT情報の文脈では核質が解体を起こすと「無核質」という力が生まれてくるのだが、この力が働く場所がシリウスと呼ばれている。この場所性はルーリアカバラでいうイエッツェラー(生成界)に対応している。イェッェラーの中心となるのはティファレトと呼ばれるセフィラーだ。伝統的にはこのセフィラーは「太陽」として解釈されている。つまり、シリウスが太陽を生成する場所になっているということだ。
まぁ、いろいろと書いてきたが、こうした神秘主義的な概念を象徴体系のもとにただひたすら思考したとしても、それこそ現代の科学的世界観から見れば、超越的トンデモにしか見えないだろう。象徴は方向を指し示すことはできるが、そこに進ませる力が欠けている。概念が不足しているのだ。概念を生産しなくてはならない。それもマルクトの内部から、マルクト自身のはらわたを突き破るような形で。科学的知識の内部から科学的知識を突き破るような形で。
ヌーソロジーが語る「奥行きの覚醒」は、このルーリアのツィムツームとダイレクトにつながっている。光を受け取るのではなく、光を与える者へと変身を遂げていくこと。光から逆光への転身をはかること。奥行きの覚醒とは能動的光の発振が始まっている位置のことでもあるということ。
ルーリアカバラに関する私見については以前ブログの方でも詳しく書いたことがあります。長文ですが興味がある方は参照して下さい。
カバラは果たして信用できるのか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 0 • Tags: カバラ, ツィムツーム, ルーリア, 生命の樹