2月 7 2014
ミクロ・マクロ、奥行き・幅、そして〈我-それ〉という根源語
先日、レクチャーに来られた方が「自己と他者の間では本来ミクロとマクロが相互に反転している」というヌーソロジーの基本的な考え方がどうしても分からんとおっしゃっていたので、それは単に自己と他者では奥行きと幅が逆に見えているということですよ、と言ってあげたら「何だ、そういうことか ! 」と。
宇宙は幅で見たときと、奥行きで見たときとでは、世界が全く変わります。幅で見たときは極大の宇宙ですが、奥行きで見たときは極小の宇宙なのです。今からその覚醒が多くの人に起こってくると思います。それがヌーソロジーのいう「人間の意識進化」の入口ですね。
外在世界は幅に方向付けられ、内在世界は奥行きに方向付けられています。今までは幅で宇宙を見ることが常識的な時代だったのですが、これからは奥行きで見ることが常識になる時代に入っていきます。それがOCOT情報のいう覚醒期というものです。
奥行きとは意識の中に沈んだ魂そのものです。「魂は存在するか否か」という議論は幅に意識を支配されてしまった理性たちの議論であって、もともと奥行き(=魂)が存在しなければ幅(=理性)の世界など現れてきようがないのです。
幅の世界と奥行きの世界の間には、ある絶対的な捻れが存在しています。その捻れが「わたし」と「あなた」の間に絶対的な差異を作っています。
理性というものはこの差異を無視する力のことです。この差異が無視されると「世界はすべてわたし」という錯覚が現れます。ブーバーの言葉で言えば、すべてを〈我-それ〉の関係で捉えてしまうのです。理性の世界にとっては〈あなた〉さえ、〈それ〉として扱われるようになります。
科学的、宗教的、哲学的を問わず、およそ宇宙について考えるとき、この〈我-それ〉をベースに置いた思考では、宇宙の根っこは決して捕まえることはできません。また、感じることにおいても、この〈我-それ〉がベースにある限り、すべての感覚は〈我-それ〉へと回収されてしまう運命にあります。
ブーバーが〈我-それ〉ではなく、〈我-汝〉をもう一つの根源語に措く理由がここにあります。奥行きと幅の絶対的差異を発見することは、〈我-汝〉の関係の思考を達成するにあたって、欠かせない条件の一つのように感じています。
中瀬和子
2014年2月8日 @ 16:32
中性子(ψ8)は、他者と一体化しながらも確立した自己を持っている意識の場。進化を持った個体意識は両方を併せ持つ。とシリウス革命にはかいてあり、これを実験によって体得するよう指導してくれたのがダグラス・ハーディングでした。
ラマナ・マハリシも、見る者なしには、見られるものも存在しない。創造は見る者の中に含まれているからである。ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。真我を離れて宇宙は存在しないからである。
「ブラフマン実在である。世界は幻想・非実在である。そして、世界はブラフマン・実在である」と言っています。
これが、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」だと思いますが、
http://weltgeist.exblog.jp/10830280
ブーバーが、我=それではなく、我=汝とする意味がよくわかりませんでした。真我の中に個我も包含されているので、我=それ、でもいいのではないかと思うのですが。
丸々亭
2014年2月18日 @ 22:20
はじめまして。半田さんの文章はとても美しいです。著書は7年前に出会ったのですが、とても面白い!!が、文系には難解!!
先日、半田さんとや中山さんの最新刊を購入しました。その前後に読んでいた本と内容がシンクロしているので、えーって感じで驚きました。ベリー西村さんという方の本で、三部作の最後の本です。
あと、内容は最高に面白いのですが、難易度も最高級のリアリティトランサーフィンの謎が、半田さんのブログで解けそうです。
hidemon
2014年3月17日 @ 04:54
「外在世界は幅に方向付けられ、内在世界は奥行きに方向付けられています。今までは幅で宇宙を見ることが常識的な時代だったのですが、これからは奥行きで見ることが常識になる時代に入っていきます。それがOCOT情報のいう覚醒期というものです」
とても難解な説明です。そのような表現が必要なのでしょうか?
鏡像関係内での幅とは主体と客体で左右の方向性が逆転すること(点対称)、奥行きとは左右の方向性が逆転せずにそのまま映し出されていること(面対称)のことです。
中和=対化としてみてしまう。
これは面対称を点対称として誤認しているのだと思います。そうすると関係は捻れに見えてしまいます。鏡像と観てしまうことと鏡と観ることを混同しているのです。
等化とは点対称として誤認している面対称を面対称として修正することです。
主、客、間とそれを取り巻く背景空間の関係に運動差が無ければ(相互に制止している)比較的簡単に、又、偶発的にそう観えることがあったのでしょう。その経験上の固定概念が継承され続け「そうしなければならない」と思い込んでいる人が多いだけだと思います。これは科学的観察も含み人間全般の観察行為に当てはまります。
運動差が無ければ空間を3次元的な関係で捉えていてもそう見えることがあるでしょう。ですが運動差を知覚してしまうとその関係が破綻してし観えてしまう。これが中和が対化に戻す作用です。つまり、等化が運動のない限定された条件の下でしか行えないということ。
空間が時空のように中心点を持ち広がる空間であるのなら、その対化にはミクロとマクロでの速度差が生まれます。そうすると前者の方法だけでは等化ができなくなってしまいます。
その速度差を埋める加速が主客相互の位置を作り出します。そのためには速度の調整が必要になります。それが各次元観察子の顕在化です。
これは難解なものなどではなく、只の知恵の輪です。だれかが難解にしているのです。又は、取り組む者の「難解であってほしい」という人間の虚栄心が潜在的にそうさせているのです。自我をほんの少し手放す必要があります。
子供じゃあるまいしほんの少しぐらいできるでしょ?
真理とは追究するものであり信仰する必要はない。
加速とは現象のことを指し位置を意味します。
加速度とは比率だけを意味し、この場合、テクニックを意味します。
鏡像関係を鏡像関係として捉えている「像」として作り出しているところが既にレトリックに落ち込んでいるのだと思います。捻れているのは空間ではなく自分自身の思考形態だけだったのですよ。それでは決して理解することはできないはずです。
それと、4次元を3次元から考えてはいけません。4次元を考察するのなら空間は4次元以上でなければなりません。人神に「格質の解体が必要」「意識の位置を作り出さなければならない」と、ご自身で書いていたのではないですか?