虹色の襞の衣服を失って泣く女

ピカソやブラックに始まったキュビズムの絵画運動。今思えば、それは光の抽出への衝動だった。対象を対象そのものとして捉えること。そのとき表象は無限数の相貌を見せ、表象ならざるものへと変貌していく。結果、キュビズムは退散を余儀なくされる。

画家たちの衝動はそこで受動的なものではなく能動的なものを目撃する。カンディンスキー、モンドリアンetc。そこに出現するのは抽象的な線や面の世界である。

ここにはもはや受け取られたものとしての表象は存在しない。目の力の中で表象が何に成長していくのか、もしくは、そこから何が表象を成長させていくのかという、魂の律動の風景の問題がある。

時を同じくして、当時、物理学者たちもまた表象を超えるものの出現と格闘していた。量子力学だ。量子の世界では位置と運動量を同時に決めることができない。観測される前の量子的対象は確率の海で泳いでいる・・etc。物理学者たちが当時出会っていた対象とは、実のところこのキュビストたちの作品のイマージュの力にほかならない。

対象を取り巻く無数の多視点。そしてその多視点でその表面が埋め尽くされた不可視のたま。それが時間の中では回転として現れ、時空の中では平面波として波動化する。たまというすこぶる単純な形象が時間と空間という物理表現の形式の中で無意味に複雑化されていくのだ。

わたしたちの魂は本来、この「多視点でその表面が埋め尽くされたたま」が七重になって織りなす虹色の襞から作られていた。それは現代物理学が内部空間(余剰次元)に見ている7次元の球面と同じもののように思える。つまるところ物理的時間とはこの七層のたまで縫われた魂の衣服を見えなくさせているものである。

神話によれば、女神イシュタルは冥界へと下るときに身につけたその美しい七枚の衣服を次々と脱ぎ捨てていったという。おそらく人間とは全裸のイシュタルである。僕らは一人の女として今、冥界の深淵に立たされ、むき出しの皮膚から多くの血を流し続けながら泣いている。この神話は語る。彼女は再び七枚の衣服を一枚づつ取り戻し「天界と大地の女王」として再び蘇ると。。

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