虹を渡るオオカミ

OCOT情報がなぜ真っ先に「素粒子について思考すること」を勧めてきたか。それが今はよく分かる。それは世界のあらゆる対象の中で素粒子だけが即自的対象として”在る”からだろうと思う。つまり、素粒子について思考することが、思考するわたし自身について思考するという必然性を生むからだ。

「思考するわたし自身について思考する」というのは、対象と概念の一致と言い換えてもいい。文字通り「世界とはわたし」を実行する思考のことだ。ここにおいて思考は一つの行為である。こうした思考こそが能動知性が持った思考と言える。思考が物質に直に触れるのである。

思考が物質に直に触れたとき、「わたし」という存在は必然的に世界から退散する。主観と客観が一致するところに、もはや「わたし」はいないからだ。この一致によって今まで主体が固執していた「それは何か」という問いかけは「わたしとは誰か」という問いかけに変わり、その誰かを求める欲望が生じる。

そのような空間が創造空間というものである。そこでは疑いようのない在り方で彼岸と此岸の眺望が開けてくる。そしてこの二つの岸の間には疑いようのない在り方で「七色の虹」が架かっている。思考は一匹の狼となってこの虹の橋を渡っていかなくてはならない。

そんなイメージを製品デザインに使ったのコレ(どひゃ!!)笑。今はなき「ヌースシガレットボックスOff」。ほとんど自分のために作った製品のようなもの。年配のお客さんから電話がかかってきて「おたくの社長はキチガイか」と言われた伝説の一品。

ookami