存在の内部へ

奥行きと幅の間にはあらゆるパラドックスの原型がある。その意味で言えば、奥行きと幅は哲学のパトスが発生する十字路とも言える。人間の思考の原理が同一性に依拠することと、人間が幅で世界を構成していることとはたぶん同値だろう。

奥行きが幅に浸食されることは、ハイデガー風に言うなら、被投された存在を意味している。外化した時間のことだ。奥行きそのものの中には内化している時間(持続)があり、この時間の方へリアルを感じ取るためには、奥行きが持った風景を可能な限り前景化する必要がある。

ただ、難しいのは、奥行きに身を投げ入れることがドゥルーズのいう差異化であるのならば、その風景は常に差異化を続けていくことによってしか、立ち現れることがない、ということだ。というのも、差異は所与のものではなく、所与を与える側のものだからである。

現代物理学の宇宙創成論は、奥行きで起こった出来事を幅の中で表現してしまっている。これを再び、奥行きにおける出来事として書き直すことが必要だ。それは存在をもの自体の次元から認識し直すこととも言えるが、それこそが「創造」の意味にほかならない。

わたしとは光である、に始まり、わたしはいかにしてクォークへと変身し、いかにして原子核へと変身し、いかにして元素体へと変身していくのか。こうした変身の物語を自らの奥行きの中に目撃していくこと。それは、シュタイナーのいうエーテル体、アストラル体、自我の開示に等しい。