【ベルクソンの哲学】ヌーソロジー初心者向け

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真の奥行きを取り戻すためにベルクソンはよく「空間化した時間」という表現をする。「空間化した時間」とは直線的に表象される時間のことだ。物理学が用いる時間軸などがその典型だ。こうした時間概念では現在=瞬間は直線上の一点で表される。そして時間の経過とともに現在はこの直線上を滑るように移動していく。

このような時間概念をベルクソンは徹底して批判する。というのも、このようなかたちで時間を概念化してしまうと、現在はどの現在を取ろうともすべてが均一的な現在になってしまうし、現在を現在として認識することもできなくなってしまう。現れてはすぐ消えるものが現在だとするならば、そこには常に瞬間の継起しかないのだから、時間は「無」に等しくなり、何も存在していないのと同じだ。

そこでベルクソンは「持続」という概念を持ち出してくる。持続とは簡単に言えば「現在はつねに過去を含んで成り立っている」というものだ。ベルクソンが「物質とは記憶である」というのもそのような考え方からきている。今見ている物質が現在であるなら、それはすぐに消えてしまうのだから、物質など存在しなくなる。ということだ。過去(記憶)は現在の「土台=根拠」となっているわけだ。

自分の意識を振り返ってみればすぐに分かると思うが、現在は過去とともにある。むしろ過去がどっしりと自分のうちに根付いており、現在はその表面のようなものにすぎない。現在とはポツンと点のようにあるものではなく、瞬間瞬間、成長している過去の皮膜のようなものなのだ。

そして、存在の実体をこうした成長し続ける「持続」として考えると、過去はすでに消えて無くなってしまったものではなく、過去こそが「存在するもの」であり、瞬間としての現在は過去の中の一部の古い現在として「あった」ものという方が正確な言い方になるのが分かる。つまり、過去が先にあって、現在はそこから反省されて表象化されているものにすぎないということだ。現在が過去を見ているのではなくて、過去が現在を見ているということ。

「自分の中にずぅーと続いているものがある」「そして、それはずぅーとあり続けているものであり」「始まりも終わりもなくずぅーとただ在る」それがベルクソンのいう純粋持続であり、ベルクソンにとってはそれがそのまま「精神」の意味となる。宇宙の実体とはこうした純粋持続としての「精神」にある。これがベルクソンの哲学の根幹だ。
この精神は、当然、人間の中にも息づいている。ただ、人間は自我を持つために、この純粋持続の極めてローカルな部分の中で閉塞されている。それを自分の一生と呼んで、死ねばすべてが無くなるとか思っている。ベルクソンに拠れば自我が死んでも純粋持続は実体としてあり続ける。

OCOT情報は「人間はまもなく死ななくなる」と言っていた。もちろんこれは人間の肉体が不老不死になるとかいうことではなくて、このベルクソンのいう純粋持続の中に分け入っていく超感覚的知覚を人間がまもなく獲得するようになるということを意味している。残念なことに現在はベルクソンの思想は神秘主義まがいのものとされ、今ではすたれてしまっているのだけど、それはベルクソン自身が純粋持続が活動する風景を具体的に描けなかったからにほかならない。
それが具体的に描写され、さらには多くの人に相互了解されるようになれば、それは新しい現実を作り出すことになる。その現実はもはや人間の現実ではないだろう。存在における実体(純粋持続)が持った現実である。そうした現実が今から開いてくると僕は思っている。
上写真はhttp://fukuyumini.exblog.jp/9669078からお借りしました。