道徳VS倫理

Metamor道徳とはルサンチマンであるとニーチェは言った。それは分かりやすく言えば、娼婦に石を投げつけること。娼婦が美しければ美しいほど、石はその数を増す。こうした風景は今も世間のあちこちで見ることができる。聖書の時代から何も変わっていない。

道徳というものには何一つ根拠がない。それは超越的に天下ってくる『汝、善を為せ』という命令に等しい。国家であれ、社会であれ、組織であれ、人間がひとたび集団に属するや否や、こうした超自我的な号令があちこちに響き渡る。

一方、人の心の中には「汝、そんな善は為すなかれ」と叫んでいる声がある。こうした声を僕は道徳と区別して「倫理」と呼んでいる。倫理もまたその根拠が不明だから超越的であることに違いはないのだが、倫理には全体だけではなく部分のことを考える慎ましさがある。その慎ましさゆえに、倫理はいつも道徳に押さえ込まれてしまうのだが。。

道徳の体制は強烈だ。スピノザはこの体制を支える三種類の人物を挙げる。まずは悲しみの受動的感情にとらえられた人間たち。次に、こうした人間たちを利用して自己の権力基盤とする人間たち。最後がそうした人間たちに憤慨したり、嘲笑を浴びせかけたり、同情したりする傍観者的な人間たち。
スピノザにとって、これら三種類の人間たちは順に[奴隷]と[暴君]と[聖職者]であり、彼らが三位一体となって道徳の体制を確固たるものにする。

倫理は果たして道徳に反撃を開始できるのか。そのためには倫理の根拠を見出さないといけない。倫理を永遠の必然性として自然に受容することができる精神が必要なのだ。それは哲学者たちが長きにわたり挑んできたテーマでもあるのだけど、もはや哲学はそれを諦めた(かのように見える)。哲学の死だ。
でも、僕はそれが科学の中から現れてくると考えている。いや、科学しか道徳の体制を駆逐できないのではないかと。だから僕にとってヘルメス知とは科学のことである。もちろん、そこには反転のスパイスが必要とはなるが。。

科学が倫理的価値に根拠を与えることなど不可能だとたぶん誰もが思うに違いない。モノの世界と心の世界は全く別ものなのだから、人間の善悪を科学が判断することなんてできるわけないない。ましてや科学の屋台骨は唯物論だ。
科学的価値観が説得力を持てば持つほど倫理の根拠は薄弱になり、世界は荒廃していくに決まってる。と。それがたぶん世間一般の常識だろう。しかし、これもまた道徳が仕掛けているワナだ。

道徳は物質と精神を分離したがる。そして、事実、体制は世の中をそのようにアレンジメントしている。しかし、物質と心は僕らの予期せぬところで繋がっている。倫理の沸き出し口はまさにそこなのだ。もちろんその繋がり方は今の科学では分かっていない。
しかし、望むと望まざるにかかわらず科学はもうすぐその要請に迫られてくる。もうすぐ。