空間と放射能

Neutron_2今日、ツイッターで呟いた内容をリライトしてみた。
空間をモノの容器のように見立てるのが僕らの常識となっているけど、そういうリアルはもう終わるんじゃないかって思っている。こうした常識はたぶん空間を幅でみようとする無意識的な欲望に駆り立てられているだけだ。何度も言ってることだけど、空間の根源的性格は幅ではなく奥行きにある。

奥行きとは言い換えれば、眼差しのことだ。空間が存在として開示するのは、空間が眼差しの充溢として変容を遂げたとき以外あり得ない。その意味で僕らはまだ存在としての空間に接していない。妙によそよそしい空間。命が何一つ吹き込まれていない空間。そして、眼差しが存在しない空間。そんな空間は「虚無」でしかない。

奥行きが眼差しでもあるというのは誰にもすぐに分かる表現だと思うのだけど、奥行きのみならず、幅や高さもまた、その方向を奥行きとして見ている眼差しが自分の中にあることに気づこう。横からの眼差しは奥行きを幅に変える。つまり、奥行きを存在から切り離す。これは、ドゥルーズ風に言うならば巻き込みを繰り広げへと展開させる「異化させるもの」の力だ。

高さ方向から入射してくる眼差しはどうだろう。「それでも地球は回っている」。これは歴史を中世から近代へと発展させる原動力ともなった眼差しである。この眼差しは、奥行きと幅を十字の関係として見ている。宇宙空間から見れば大地には直交する眼差しで作られた無数の十字架が散在させられていることだろう。この第三の眼差しにとっては地上での奥行きと幅は対称性を持って回転している。つまり、そこでは奥行きは幅と同一視させられ、かつ、その幅は単なる幅ではなく、眼差しが入り込んだ幅である。つまり、主体はここで超自我を自らの中に内在させ、自らの視線で自らを監視するようになるのだ。

直観すべきことは、こうした諸々の眼差しの種族たちは時空に存在するものではないということである。左右からの眼差しによって奥行きが幅に変えられるのならば、むしろ、こうした眼差したちは時空よりもメタな空間で活動している僕ら自身の身体性から派生してきていると考えなければならない。そして、言うまでもなく、こうした身体性の一部として時空が作り出されているにすぎないのだ。
眼差しは知覚的事実として、一切距離というものを持たない。それは数学的には射影のようにして無限小空間の中に縮約されている。ちょっと想像してみよう。前後も、左右も、そして上下もそれぞれ無限小にまで潰された空間の姿を。それは時空と呼んでいる僕らが慣れ親しんだ場所では極小の点状の構成物となって出現するしかないのがすぐに分かるはずだ。眼差しによって構成された身体の中では宇宙はこうした一点の中に沈み込んでいる。

そして、こうした沈み込みの身体こそが科学者たちが「素粒子」と呼んでいるものだと想定してみよう。そうすれば、「見るものとは見られるものである」というあの神秘家たちの達観が、はっきりとした知性のもとに浮上してくるのが分かるはずだ。なぜなら、僕らにとって見られるものとは物質のことであり、その物質は素粒子からできているからである。

しかし、残念なことに、僕らの眼差しは視線と呼び名を変え、まるで夢遊病者のように時空の中をさまよっている。実のところ、そこには何もない。なぜなら、そこには眼差しがないのだから。眼差しの身体の忘却。これは存在の忘却、いや、そうした眼差しを正当な眼差しだと主張することは存在の殺傷に等しい。

当然のことながら、この傷は存在にとっては堪え難い痛みとなっていることだろう。そこで存在はこの傷によって裂開した自らの組織の修復を諮ろうとする。つまり、存在自らが消失していく眼差しを補おうとするのだ。それは、時空においては素粒子の崩壊、並びに、それらの壊変として現れる。これが放射能である。放射能の本質は存在からの人間の逸脱なのである。
原子力という技術はその意味で人間精神の破壊を加速させるために出現している存在の外部にある何か全く別の力だ——もし、世界最終戦争というものがあるのならば、その戦いは核戦争などといった矮小な規模のものではなく、存在世界全体とその外部にあるこの不気味な力との戦いのことなのだろう。
そして、それはもう始まっているのかもしれない。
(上の画像はhttp://rit_hp.web.fc2.com/gallery/star/07.htmlからお借りしました。)