ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピの中で夢野さんが紹介していたSさんの物理学教室、中身が斬新でかつ濃厚そう。参加したい。さすがブルックヘブン出身やね。この冒頭にある夢野さんへのSさんのコメントは面白い。
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピ——こちらへ
空間の中にモノがあるのではなく、モノが回転して空間(時空)を作っているのがイメージできると思います。
まずは単純に考えて、モノの半径をR(+)^1としてそこに作用する回転群をSO(3)とすると、
SO(3)×R(+)^1→時空
という構成ができる。
さて、モノの回転と言ったとき、すでにモノという認識が前提とされている。ではモノの認識そのものはどうやって生み出されているのか。それについて考えなければならない。視覚にとってモノは平べったい像にすぎないので、それだけではモノの認識に至ることはない。モノが主観にとってモノであるためには、モノが周囲に放っている様々な見えをいろいろな角度から見て、そのときどきの視像を主体が想像できなくてはならない。つまり、モノという認識自体の中にすでに見えない回転運動が前提として含まれているということだ。しかし、ここでの回転は事物としてのモノの回転(SO(3))では決してない。また、それは主体がモノの回りを巡って作り出しているような回転でもない。モノは一瞬のうちに一挙にモノとして主体に把握されているのだから、そこにはもはや時間はなく、主体にとってはモノの見え(表相)をあらゆる位相から同時に見るような一括した認識である。
ここでキュビズムが頭をよぎる。周知の通り、ピカソやブラックの作品で有名な分析的キュビズムはこうした位置に人間の認識を解放させようとして生まれた芸術運動だった。しかし、所詮、無限数の視点から見たモノを絵画として表現するのは不可能だ。分析的キュビストたちの失敗は、この把持の状態(一挙に見ること)を絵画作品として表象化しようとしたところにあった。
視覚的表象はあくまでもヌーソロジーでいう「表相」次元に含まれるものであり、モノの認識において把持されているものはもはや表象ではなく、モノが違う角度から見ても別の視像を持っているという「主観における確信」ではないのだろうか。そして、そのような確信を裏で保証しているのは別の観測者、つまり他者に他ならない。だとすれば、モノの認識は自己だけで成立するものではなく、自己視線と他者視線のあいだに成り立っている間-主観的な対称性を持つ構造体であると言える。モノにおけるこの対称性の構造の把持を幾何学的に表現しているものがおそらくSU(2)ではないかと思われる。否、SU(2)という群で表現してしまうと回転のニュアンスが含まれてしまうので単にS^3(3次元球面)とした方がよいかもしれない(SU(2)=S^3)。この考え方においては観測の視線をスピノールとして解釈している(根拠は省略)。
さて、モノの認識の背後にこのような高次の回転が暗躍していると仮定すると、上でSさんが書かれている「モノが回転して時空を作っている」という内容は、モノ=SU(2)が回転して時空を認識しているという言い方に変えても全く構わないことが分かってくる。これは、元のモノの観念自体の成立がSU(2)で成り立っているとすれば、時空認識の背後には必ずSU(2)が暗躍していなければならないという意味でもある。こうして主観における外界「認識」のカタチは、
SU(2)×時空[SO(3)×R(+)^1]
というかたちで表現できることになる。
上の式の内訳を説明しておくと、
時空に対するノエシスの元となる力がSU(2)で、
時空というノエマが[SO(3)×R(+)^1]、
観察の志向性自体が×の記号で表されていると考えるといい。
このことは何を意味するのか――
ヌーソロジーにおいては点とモノは幾何学的に同相だと考え、これら両方を「点球」という概念で一つにとりまとめる。つまり、点とモノは「観念においては等しいもの」だと考えるということだ。これは物理学が物体を質点に還元してしまうことと似ているにも感じるが、その意図は全く違う。時空の広がりの認識はノエシスとしての点観念の拡張(膨張)によって構成される。点の観念は観念であるゆえに大きさはない。このときの点観念自体のカタチがSU(2)である。
運動によって3次元空間の広がりを構成する場合についても同様のことが言える。空間上を点が動く場合を考えてみよう。それによって空間が計量的に認識されていく。もしくは、計量的に認識されることによって空間という概念がそこに設定されているとも言っていい。いずれにしろ、点観念が存在しなければ、1次元も2次元も3次元もヘッタクレもない。しかし、その空間認識における力の根源的点ともいうべきものは内部にSU(2)=S^3の構造を孕んでいる。となるとそこに何が起こるだろう。そこでは直線が円環状に丸められ、結果的に3次元空間をまさぐっている点の直線運動自体が自己言及的に点自身の内部構造であるSU(2)の中に反映され、その運動を回転の位相の変化としてプラマイゼロになるように調整してくることだろう。この全体の帳尻合わせが物理学がゲージ対称性と呼ぶもののの本意となっているのではないだろうか。
このことから物理学が言う時空上の一点一点に貼り付いた内部空間(アイソスピン空間)とは、主観が時空を認識するための点の観念のことではないかという仮説をヌーソロジーでは立てている。そして、その点の発生の起源は自己と他者の視線の総体にある。何度も言うようだが、ヌーソロジーにおいては素粒子は物質ではない。それはわれわれの精神である。
外界認識はヌーソロジーでいうところの「人間の思形」そのもの。
ψ2→ψ4→ψ6→ψ8へのψ7の交差(上図参照)。
10月 15 2010
外面知覚がミクロ世界に入り込んで何やら悪さを働いているというお話
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピの中で夢野さんが紹介していたSさんの物理学教室、中身が斬新でかつ濃厚そう。参加したい。さすがブルックヘブン出身やね。この冒頭にある夢野さんへのSさんのコメントは面白い。
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピ——こちらへ
空間の中にモノがあるのではなく、モノが回転して空間(時空)を作っているのがイメージできると思います。
まずは単純に考えて、モノの半径をR(+)^1としてそこに作用する回転群をSO(3)とすると、
SO(3)×R(+)^1→時空
という構成ができる。
さて、モノの回転と言ったとき、すでにモノという認識が前提とされている。ではモノの認識そのものはどうやって生み出されているのか。それについて考えなければならない。視覚にとってモノは平べったい像にすぎないので、それだけではモノの認識に至ることはない。モノが主観にとってモノであるためには、モノが周囲に放っている様々な見えをいろいろな角度から見て、そのときどきの視像を主体が想像できなくてはならない。つまり、モノという認識自体の中にすでに見えない回転運動が前提として含まれているということだ。しかし、ここでの回転は事物としてのモノの回転(SO(3))では決してない。また、それは主体がモノの回りを巡って作り出しているような回転でもない。モノは一瞬のうちに一挙にモノとして主体に把握されているのだから、そこにはもはや時間はなく、主体にとってはモノの見え(表相)をあらゆる位相から同時に見るような一括した認識である。
ここでキュビズムが頭をよぎる。周知の通り、ピカソやブラックの作品で有名な分析的キュビズムはこうした位置に人間の認識を解放させようとして生まれた芸術運動だった。しかし、所詮、無限数の視点から見たモノを絵画として表現するのは不可能だ。分析的キュビストたちの失敗は、この把持の状態(一挙に見ること)を絵画作品として表象化しようとしたところにあった。
視覚的表象はあくまでもヌーソロジーでいう「表相」次元に含まれるものであり、モノの認識において把持されているものはもはや表象ではなく、モノが違う角度から見ても別の視像を持っているという「主観における確信」ではないのだろうか。そして、そのような確信を裏で保証しているのは別の観測者、つまり他者に他ならない。だとすれば、モノの認識は自己だけで成立するものではなく、自己視線と他者視線のあいだに成り立っている間-主観的な対称性を持つ構造体であると言える。モノにおけるこの対称性の構造の把持を幾何学的に表現しているものがおそらくSU(2)ではないかと思われる。否、SU(2)という群で表現してしまうと回転のニュアンスが含まれてしまうので単にS^3(3次元球面)とした方がよいかもしれない(SU(2)=S^3)。この考え方においては観測の視線をスピノールとして解釈している(根拠は省略)。
さて、モノの認識の背後にこのような高次の回転が暗躍していると仮定すると、上でSさんが書かれている「モノが回転して時空を作っている」という内容は、モノ=SU(2)が回転して時空を認識しているという言い方に変えても全く構わないことが分かってくる。これは、元のモノの観念自体の成立がSU(2)で成り立っているとすれば、時空認識の背後には必ずSU(2)が暗躍していなければならないという意味でもある。こうして主観における外界「認識」のカタチは、
SU(2)×時空[SO(3)×R(+)^1]
というかたちで表現できることになる。
上の式の内訳を説明しておくと、
時空に対するノエシスの元となる力がSU(2)で、
時空というノエマが[SO(3)×R(+)^1]、
観察の志向性自体が×の記号で表されていると考えるといい。
このことは何を意味するのか――
ヌーソロジーにおいては点とモノは幾何学的に同相だと考え、これら両方を「点球」という概念で一つにとりまとめる。つまり、点とモノは「観念においては等しいもの」だと考えるということだ。これは物理学が物体を質点に還元してしまうことと似ているにも感じるが、その意図は全く違う。時空の広がりの認識はノエシスとしての点観念の拡張(膨張)によって構成される。点の観念は観念であるゆえに大きさはない。このときの点観念自体のカタチがSU(2)である。
運動によって3次元空間の広がりを構成する場合についても同様のことが言える。空間上を点が動く場合を考えてみよう。それによって空間が計量的に認識されていく。もしくは、計量的に認識されることによって空間という概念がそこに設定されているとも言っていい。いずれにしろ、点観念が存在しなければ、1次元も2次元も3次元もヘッタクレもない。しかし、その空間認識における力の根源的点ともいうべきものは内部にSU(2)=S^3の構造を孕んでいる。となるとそこに何が起こるだろう。そこでは直線が円環状に丸められ、結果的に3次元空間をまさぐっている点の直線運動自体が自己言及的に点自身の内部構造であるSU(2)の中に反映され、その運動を回転の位相の変化としてプラマイゼロになるように調整してくることだろう。この全体の帳尻合わせが物理学がゲージ対称性と呼ぶもののの本意となっているのではないだろうか。
このことから物理学が言う時空上の一点一点に貼り付いた内部空間(アイソスピン空間)とは、主観が時空を認識するための点の観念のことではないかという仮説をヌーソロジーでは立てている。そして、その点の発生の起源は自己と他者の視線の総体にある。何度も言うようだが、ヌーソロジーにおいては素粒子は物質ではない。それはわれわれの精神である。
外界認識はヌーソロジーでいうところの「人間の思形」そのもの。
ψ2→ψ4→ψ6→ψ8へのψ7の交差(上図参照)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ゲージ対称性, ヌーソロジー, 佐藤博紀, 素粒子, 表相