カバラは果たして信用できるのか?——その8

前回よりのつづき――

 では存在そのものへと変身を遂げた存在者はいかにして無を有へと変換していくのか、また、そのときに存在へと変身を遂げた存在者には新たなる創造のためにどのような身振りを要求されるのか――ルーリアの説くツィムツームのビジョンをそこに重ね合わせてみることにしよう。

 存在は創造に当たって自らを収縮させ、存在の内部から撤退した。その撤退跡には存在者の場が用意され、そこに収縮によって点と化した存在とその反映物としての全き空無が姿を表す。それがツィムツームの風景である。ここから存在世界自体が自らの在り方を刷新していくためには、このツィムツームによって生じる神の自己収縮と自己展開が継続して生起していくような深い弁証法が要求される。それはツィムツームの後に生ずる最初の対関係である〈点と空間〉の統合それ自身が新たなツィムツームとなって不断に差異の生産を生起させていくような弁証法である。このような弁証法は弁証法が持ったシステム自体を絶えず自らのうちに収斂させていくような運動と、同時にその反対物を自らの外部に向けて絶えず展開する運動を合わせ持つような二重の運動となる。反対物として外部へと展開される方はシステム自身に付加される負の運動であるから、システム全体においては常にn+(-n)=0が成り立ち、全体としてツィムツームを通して為される創造は無の自己展開といった様相を帯びなければならない。

 こうした〈統合-展開〉の連続性は存在者としての単一性を存在としての単一性とへ収束させていく働きと同時に、存在としての単一性を存在者としての単一性へと展開していく働きを同時に合わせ持っていることが分かる。つまり、光の流出という創造者による原初の一撃は存在者からの上昇(多なるものを一なるものへと変換していく)であると同時に、存在からの下降(一なるものを多なるものへと分割していく)という二つの流れを同時に持ち合わせている必要があるということである。言い換えれば、創造のプロセスにおいては分割と統合における全体と部分の関係が、つねに全体=部分、さらには部分=全体というようにミクロとマクロの対称性が常に保たれながら展開されていく必要があるということだ。

 このようにルーリアのツィムーツームを創造原理として受け入れ、その展開に一貫性を持たせるためには生命の樹のあるべき姿は自ずとあらわになってくる——つまりは、既存の生命の樹に加えて、そこに上下、左右が共に反転したセフィロトの樹を重ね合わせ、生命の樹自体を両性具有化させ、内部にキアスムを含み持つ立体的な樹木へと変身させなければならないということだ。それによって初めて生命の樹と知識の樹は創造の樹木として統合され、僕らはツィムツームの原理に満たされた創造空間が持つ真の対称性に触れることができるのだ。

 世界は無数の存在者で満ちている。そして、それらは時空という存在者全体を統括する「一なるもの」の存在によって現前している。創造の終わり=始まりにおいては、この「一なるもの」にツィムツームの雷鳴が轟く。ここにおいて時空は一気に点へと収縮するのだが、それは同時に新しい存在者を生み出すための光の種子となる。時空としての一者が点的一者へと変身を遂げ、観念の原初へと立ち戻るのだ。こうした立ち戻りがヌーソロジーが「反転」と呼ぶ所作であり、そこに出現するものが全きヌース(旋回的知性)で駆動する創造のメルカバーである。

——おわり