3月 8 2010
現象学とヌーソロジー
最近、あまりにブログを更新していないので、ツイッターのつぶやきから、ブログ記事を起こしてみました。
おはようございます!! 今日は次回レクチャーのプレゼン準備です。key noteを使ってます。いいソフトです。使いこなせてはいませんが。ここ1ケ月、ヌーソロジーと現象学の類似性とまたその相違性について概括していました。まだ人前でうまく話せるほど咀嚼できてはいませんが、次回のレクチャーでは少し話してみようと思っています。何事もチャレンジやね。
現象学とヌーソロジーとの最も大きな類似点は、意識の在り方を主観的な位置から再構成していくという点です。既存の客観的な知識の枠組はとりあえずはすべてエポケー(判断の中止)する。第三者目線ではなく、自分自身のリアル世界から意識の在り方を見つめ直すということですね。こういう思考態度を現象学では超越論的還元と呼びますが、早い話、自分が赤ん坊であったときのことを想像して、そこからどうやって現在のような意識構成ができあがってきたのか、その条件を事細かに問うていく、ということです。 その意味で、現象学は発達心理学とも深い関係を持つと考えていいのですが、心理学系の知識との絶対的な違いは、現象学は自然的態度(通常の世界認識の常識)をエポケーしているわけですから、物理世界と心理世界を二元論的に分離させません。心理学は物理世界という外在と心理世界という内在を区別して、その内在の方の在り方の秩序を探索するという前提で成り立っていますから、自然的態度の立場に立って意識を思考していますね。しかし、現象学はそれさえも括弧に入れてエポケーする。その点が決定的な相違となっているわけです。
こうして現象学は、内も外もない意識のタブラ・ラサ状態からどのようにして内在と外在が生じ、そして、それら認識の構成を最終的にすべてを取りまとめているところであるものとしてのエゴ・コギト、すなわち統括者としての主観性(これが超越論的主観性と呼ばれるものです)へと回収されているのか、その構成秩序を志向性という概念を使って明確にしていこうと努めます。いや、実際にはまだ明確にはなってはいないので、明確にしようと試みた、ということかな。
これら一連の現象学の思考態度とヌーソロジーでいう「人間の外面において思考する」という姿勢とはほぼ一致していると言っていいのですが、現象学とヌーソロジーの最も大きな違いはヌーソロジーが時間も最初の段階でエポケーしてしまうという点です。ヌーソロジーの場合、無茶苦茶、思いっきりがいいのです。まぁ、人によっては無謀ともいいますが(笑)。
現象学が時間をエポケーしきれなかったのは、対象に対する志向性をそのスタートラインに組み入れてしまったからだと思います。このスタート地点の部分での吟味の曖昧さが、現象学自体に最後まで尾を引いて呪いをかけているように僕には感じられます。要は対象を志向する自我極というものの発生についての論証が曖昧なのではないかということです。ヌーソロジーにおいては時間の発生の契機はこの自我極の措定にあると考えます。これはヌーソロジーでいう「人間の内面」のことに当たりますが。この自我極の問題は結局、最後までフッサールの頭を悩まして原自我問題として残されます。
ヌーソロジーでは自我極の発生の起源は知覚世界の裏返し(外面から内面への反転)にあると考えますから、この最初の時点で外面に現象している他者(大文字の他者)が問題となります。つまり、還元が持った最初の志向性とは世界そのものにあるのであって、自我極にあるわけではないということです。デカルトの言う「われ思うゆえにわれあり」ではなく、ラカンの言う「われ思わざるところにわれあり」ということですね。ある意味、デカルトの従順な学徒でもあったフッサールにおいては、思考の原点がいつも「自我ありき」なので、この発想の転換がどうしてもできなかったように思われるのです。それが最後までつきまとい、結局のところ他者との関係は超越論的間主観性という曖昧な概念で覆われてしまったのではないでしょうか。自我の起源が他者にあるかもしれないとは決して考えないわけです。
それともう一つの重要な相違点は、現象学は現象学と自称しながらも、世界が現象してくるその理由には結局、何一つ触れることはできてはいないのではないかということです。どういうことかというと、現象として目の前に物質が現出してくる理由については何一つ語られていないということです。 これでは結局のところ、現象学ではなく、あくまでも内在における意識の構成学であって、客観をもたらしてくる物質という存在がいかにして成立しているのかという、その条件について吟味が終了しているとはまだ言えない、と思います。カントのいうモノ自体からまだ抜け出せていないということですね。ヌーソロジーは現象学がいうこの志向性のシステムを幾何学的に構成することによって、そこで展開されてくる幾何学こそが素粒子構造の本質であり、その観念としての普遍性、遍在性が局所性へと接続してくるところに物質そのものと、超越論的主観が同時に成り立っているという仮説を立てています。
ここでいう遍在性から局所性への相変化というのは物理学的に言えば、波動性としての素粒子から粒子性としての原子への相変化という意味です。要は超越論的主観性の構成そのものが第一の原子である水素原子として現象化しているのでないかということです。もちろん、この論証は現時点ではまだはっきりと論理立てて整理されてはいませんが、 この仮説が明証性を獲得し、万人に妥当なものとなることができれば、それによってようやく真の意味での現象学と成り得るのではないか、というわけです。物質と意識の接点が見出され、主客一体の宇宙観が確立されてくると言ってもいいでしょう。
はてはて、そのようにうまく事が運んでいきますかどうか。それは今後のヌーソロジーの頑張り次第であり、はたまた神のみぞ知る、というところでしょうか。 うぅ、。準備せんとあかん。。。
minoru
2010年3月8日 @ 22:22
う~ん。ヌーソロジーと現象学ねぇ。何か違うんじゃないかなぁ? 今この時期に、哲学や物理学や心理学を掘り起こして比較してどうするの? という思いがふつふつと沸いてきてしまいました。
人類遺産としての学問の発想とは違うところからヌーソロジーは出てきているわけでしょ。私は学問をまた一から学びたいわけではない。その「学問」によってどれだけ私は(私たちは)惑わされてきたことか・・・。思い違い、勘違いの学問はもういい。
だから世の中がこんなに暗くなっているんじゃないのかなぁ。より多くの人が、もっと明るく未来を見つめられるような、わかりやすい「何か」ってないものでしょうか。
もっと言葉を単純に、数字もわかりやすくシンプルに! 何かそんなものってないのでしょうか。わけのわからない複雑に絡んだ糸を、スーッと解きほぐすことができるような、そんな「何か」・・・それをヌーソロジーに求めている私は、考えが甘いのかなぁ。
Ricardo
2010年3月8日 @ 23:44
最近、ipodで音楽を聴くよりも聴こえて来る周辺の様々な諸音を聴いていたい事が多いです。
コンテンツとしての音ではなく、聴こえて来る諸音がワタシに空間感覚を起こす、その感覚を繰り返し何度も何度も味わうのが愉しいのです。
同様に、体感する空間、視る空間が私に想起させる空間感覚を味わうことが愉しくて仕方がありません。
私たちは視て聴いて体感して空間を感じています。
それは私に空間感覚を生起させているのであって空間/世界そのものではないのではないか。
しかしこの空間/世界は無限に広がり多様性が繰り広げられる。
私に想起/創起される無限の多様性と、それを自らの意思の位置から空間/世界へアプローチすること。
私という意思の位置からしか、私が観じられる世界を知る術は無いんじゃないかと、どうしても思えてなりません。
目の前に私とアナタに共通して見えているモノと同じと思しきモノが何なのか、そこ、モノの起源を問わずして世界の何を問うのか?
そういう意味ではヌーソロジーが現象学と類似/相似する部分を多くもつのは必然に思います。
今後の現象学とヌーソロジーの絡みも楽しみです!
kohsen
2010年3月9日 @ 03:05
はは、minoruさん苛立たれてますね。
現象学とヌーソロジーの擦り合わせはそんなに時間を取るつもりはありませんからご心配なく。ただ、現象学の視点はヌーソロジーの導入部と深く関係しているので、そのままヌーソロジーの言葉で説明するよりも分かり易いと思ってるんですよね。シリウス言語を解説していくには残念ながら、こうした現象学をはじめとする哲学や、物理学、心理学、宗教等の概念を借用するしかない、というのが今のところの偽らざる現状です。だから、別に掘り起こして比較しようというものではありません。もっとも、それら相互のつながりがハッキリと見えてくる知識の登場が、minoruさんのおっしゃる「そんな何か」だと僕なんかは思っているのですが。。
>Ricardoさん
僕の現象学理解は自己流なのであまり期待せんで下さい。現象学は思考の最初の立ち位置は的確だと思うのですが、中身の展開はちょっとだるいですね(笑)。ヌーソロジーと類似しているのは自然的態度をかっこに入れるという部分と志向性くらいかな。ブログの本文にも書きましたが、物質と何一つ結びついていないのがちょっともの足りない。でも、フッサールという人物が醸し出している愚直なまでの誠実さと実直さは大好きです。
ぢろう
2010年3月21日 @ 22:59
それともう一つの重要な相違点は、現象学は現象学と自称しながらも、世界が現象してくるその理由には結局、何一つ触れることはできてはいないのではないかということです。どういうことかというと、現象として目の前に物質が現出してくる理由については何一つ語られていないということです。
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『神との対話』という本に人間が物質的な宇宙に入った理由について、次のような説明があります。
このような説明もヌーソロジーの観点から説明できれば、“凄い”ことではないでしょうか。
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宇宙は経験の場を提供しているだけだ。様々な客観的現象といってもいい。それにどんなレッテルを貼るかを決めるのはあなただ。宇宙はそのような物質的な現象の総体だ。
この世界で起こる様々な現象に遭遇したとき、あなたがたにとって重要な質問はたった一つしかない。『私は誰か』それだけだ。
概念として知っていることを経験的に知るためにあなたがた=人間は、物質的な宇宙に入った。
私=神=が、あなたがた=人間を創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、私は自分を知ることができない。
あなたがた=人間が神を創造しているのだ。
これが私たちの最も偉大な喜びである。これが私たちの聖なる仕事である。これが私たちの存在の理由である。
人生とはどこかに行き着くことではない。人生の意味とは創造である。自分を創造し、それを経験することである。
では、どうやって創造するか。思考と言葉と行動を通じて創造する。
創造するとき、あなたは人生の目的を達成している。創造こそが成長し、進歩する道であり、それがあなたや地上すべての生きとし生けるものにとって生きるということなのだから。
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神智学では、惑星ロゴス=この惑星に命を吹き込まれた偉大なる主=の目的について次のように説明しています。
『転生してくるモナドのために環境を提供する』
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ヌーソロジーも発展と進化を続けていくうちに、『神との対話』や神智学で提供されている教えや情報をその体系の中に次々に包含していくことでしょう。
ヌーソロジーという道を辿っていくうちに意識を拡大していくのです。
それはイニシエーションにつながる道でもあります。イニシエーションは、この惑星において、人類の意識の進化を早めるために導入されている人工的なプロセスです。
ですから、地球人類に関する限り、イニシエーションを避けることはできません。
イニシエーションは、完成された覚者のレベルに至るまで、五段階あります。
各々のイニシエーションが、この惑星のロゴスの御心=大計画=についてよりいっそう深い理解をもたらします。
完成された覚者方は、この惑星のロゴスの御心を完全にご存知です。
しかし、私たちには、断片的にしか分かりません。
神性を実現する方法は、多種多様であります。
教育者として、医師として、政治家として、資本家として、芸術家として、科学者として(ヌーソロジストを含む)、宗教家、技術者として、私たちは自身の意識を高め、拡大していくことができます。
しかし、どのような道を辿ろうとも、視野の拡大、認識力の増大は、地球人類に関する限りイニシエーションのプロセスを必ず含んでいるでしょう。
半田さんやヌーソロジーに取り組んでいる方が、ヌーソロジーの道を辿ってイニシエーションの門を通過したならば、創造主の御心をヌーソロジー独自の言葉を用いて表現することができるでしょう。
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たとえば、神智学においては、アストラル界=感情の世界=は四次元世界であると教えられています。
ですから、アストラル界の諸現象は、四次元世界の言語と幾何学を用いれば、正確に説明することができるはずです。
三次元世界の言語と幾何学では、感情の働きを正確に説明することはできないでしょう。それはちょうど、二次元世界の住民に三次元=立体の概念を説明することが困難であるのと同じです。彼らには奥行きという概念が理解できないでしょうから。
私たちの大多数にとって、不可視で(私たちの大多数は未だアストラル視力を開発していません)捉えどころのなく、漠然としている感情の働きも、四次元世界の言語と幾何学を用いれば、鮮明に解き明かすことが可能であると思います。
もしこれに成功すれば、心理学は飛躍的な発展を遂げるでしょう。
ヌーソロジーはこの発展に寄与してくれるでしょうか。