2月 12 2010
フッサール伯父さん
最近、めっきりブログを書かなくなってしまった。
と言ってヌーソロジーの構築作業を怠っているわけではないのよね。来るべき日に備えてシコシコとヌーソロジー体系の補強作業に勤しんでいるのには全く変わりはないのだけど、いかんせん、ツイッターというものが出現してしまった。このツールが何とも便利で「ついついツイッター」「いついつイツッター」という乗りで、ツイッターで現在行っている思考作業のポイントをまとめられてしまうので、ブログにどうも食指が動かないというのが偽らざる実状。
最近は現象学とヌーソロジーの関係を整理する意味で、現象学中心のお勉強を続けているのだけど、現象学の祖であるフッサール伯父さん(どことなく怒った時のカーネル伯父さんに似ている)には何とも共感してしまう自分がいる、というか、ひょっとしてワシはフッサール伯父さんの出来の悪い霊統ひ孫ではないか、なんて思ったりもする。フッサール伯父さんは人生のその大半を哲学的思考に費やしている。レベルの差は歴然とはしてはいるが、それはわしとて同じ。それも普通の人ならほんの数秒で通過してしまうような知覚の現場を半年ぐらいネチネチと考え続け、あーでもないこーでもないと思案し続けた。そんなどーでもいいようなことになぜそこまで固執するのか——普通の人には全く理解できない。は~い! それもわしと同じ。
フッサール伯父さんの偏執ぶりはたとえばこんな具合だ。目の前に郵便ポストがあったとしよう。郵便ポストは見る角度によって当然その見え方が違う。正面から見れば口がついているが、後から見ればただの赤い鉄柱に見える。しかし、郵便ポストという認識は、様々な角度から見られたそれらの知覚像の綜合によって意識に構成されることが可能となる——こんなことを春に大学の講義で語り始めたフッサール伯父さんだが、秋になって半年経って教室を覗いて見ると、まだ同じ話を延々と続けていたというからすごい、っていうか、すごすぎ。これもわしと同じ(笑)。
要はフッサール伯父さんは本来、学生に知識を伝授する講義という場で自分の思考の現場をそのまま垂れ流しにしながら、現象学という素晴らしい学問体系を作り上げていったのではないかと推測されるわけだ(何とこれもわしと同じではないか!!)。著書にしても同様のふしがある。『論理学研究』(1900年)から『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1937年)に至るまでのフッサール伯父さんの執筆活動で、立論がグラグラと二転三転しているフシがある。つまり、フッサール伯父さんの論立てはお世辞にも論理が一貫しているとは言えない。(しつこいようだが、これもどこかの誰かさんとそっくりだ 笑)。哲学の大先生ともあろうものが、このあいだ言ってたことは間違ってました。ほんとうはこういうことなんです。というのを何回も繰り返していれば、それこそオオカミ少年よろしく学問の世界では信用されなくなるのが当たり前なのだろうがフッサール伯父さんは違う。それでも大哲学者として名を残している。フッサール伯父さんの偉いところは自分の過ちは素直に認めることができる能力の持ち主だったところだ。さらには困っている仲間がいれば喜んで手助けをした。そくな徳の持ち主だからこそ、人々は彼の理論にも真剣に付き合い続けることができたのだと思う。思考者、それも思考の限界で思考し続ける人にとって、フッサール伯父さんはほんとうに勇気づけられる人なんだよね。僕がハイデガーが嫌いなのはフッサール伯父さんにほんとに世話になっておきながら、この恩人を売るような真似をしたところ。別に善だ悪だと騒いでいるわけじゃないけど、哲学の永遠のテーマは他者ではないのか、という意味でハイデガーほど独我論者はいなかったのだろうと思う。もちろん哲学的才能としてはハイデガーに軍配が上がると思うけど、人間性はフッサールの格段上だ。
立論が二転三転したフッサール伯父さん。でも、この人が挑戦していた作業を思えばこうした二度や三度のボタンの掛け違いなど取るに足らぬ失態にすぎない。(と言って、どさくさにまぎれて陰に自分をも擁護している?)フッサール伯父さんがいたからこそ、ハイデガーやメルロ=ポンティやサルトルやレヴィナスやデリダが登場し、哲学は生き延びて現代思想の潮流を作り上げたとも言えるからだ。ヌーソロジーも原ヌーソロジーの後に続く、新生ヌーソロジストたちが出てきてくれるのを待ちわびているんだよなぁ。いや、将来、必ずそうなる——そうやって、今日もまた郵便ポストの見えについて考えているフッサール伯父さんのできそこない似の自分がいるのであった。
レモンπ
2010年2月12日 @ 21:46
kohsenさん、はじめまして。
なにかの祖になるような人とはおおらかで太っ腹、それでいて面倒見がよくてお人好しなところがあるので後に続く人々が集まりその土壌ができていくのかもしれませんね。
この写真のフッサール叔父さんは厳格で恐そうな感じですけどウィキの方の写真は「明るい叔父さま」という感じでしたよ。
ヌーソロジーと出会って、現代社会の核家族化に始まる他者とのつながりの分断が数々の社会問題を引き起こしていることに対してその解決方法として見ない、感じない、関わらないという安直な方向へと向かい、そこでひらきなおればいいのだ、無理をして変える必要はないという考えもありますがその考えに楔を打たれたような感じがしました。ヌーソロジーのロジックでは明確にそれでは変換人には向かわないと示唆されています。
それは現在の私にとってとても重い楔に感じます。
つい先ごろNHKの番組で「無縁死」というのを見たのですが、最近は天涯孤独という訳ではなく家族がいるのにもかかわらず孤独死をして誰も引き取る人がなく身元不明のままの人が増えておりこれからもっと増えていくだろうということでした。大変反響があったらしいですが悲しい現象だと思いました。
こういうご時勢ですからフッサール叔父さんのような人は太陽のように映るわけですが、いざ現実問題となるとなかなか・・問いの位置が間違っているような気がしないでもない今日この頃です。
みら
2010年2月13日 @ 11:18
半田さん、こんにちは。レモンπさん、初めまして。最近自分が哲学的クリエイターではなく、哲学者の振りをした、ただの放浪者(自己満表現者)だと気づいたみらです(笑)。
哲学的なことを好き好んでやっている割には、哲学者の名前もよ〜知らん奴です。
”自己と他者”…皆さんここでつまづいてらっしゃるそうですが、実はそれ以前の、”自己”の段階で既に間違っちゃってる…なんてことはないでしょうか?
私は自分のことはよくわかっているつもりでしたが、本当はかなりわかってないことに気づきました。自分がわからなければ他人もわかりませんよね。他人に無関心なのは自分に無関心なのと一緒なのかも知れません。
自分は安全に自分の世界の中にだけいて、他の人に歩み寄ろうとせず、相手が譲歩してくるのを待っているだけ。偉そうなことを言いながらいつの間にか自分も殻に閉じこもっている。そんな風になってしまってはいかんな、と最近思います。
恩師を裏切った時のハイデガーさんが、どんな立場にいたのかは、外からはわかりません。
これは、誰が誰に対しての批判とか言うのではなくて、私の中に対しても思うことですが、ヌーソロジーは他に類を見ない程の完璧な理論展開を見せてはいるものの、自己満足的排他主義に陥る危険は、他のスピリチュアル系心理思想と変わらないと思います。ヌーソロジスト達は非難や攻撃はしませんが、無関心や無意識の無視に陥る可能性があるのでは、と思うのです。私も一からやり直します(笑)。
生意気なこと言ってるかも知れませんね。すみません(笑)。
レモンπ
2010年2月13日 @ 20:33
みらさん コメントありがとうございます。
>自分がわからなければ他人もわかりませんよね。他人に無関心なのは自分に無関心なのと一緒なのかも知れません。
正直私は生まれてこのかたヌースでいう自己の確立(ψ5?)に至ったことがなくて融解の中でまどろんでいるというかほとんど逆向きに生きていると思います。
自己他者と一口にいっても一般的に使う意味とヌースでいう意味とはずいぶんかけ離れたところがあるような気がして一般的な意味での観念が強すぎてそこで意味を履き違えてしまいよく分からないのかもしれません^^;
kohsen
2010年2月15日 @ 15:57
>レモンπさん
現実に対しては考えうる限りの方策と与えうる限りの愛情を持って対処していくというのが人間としては当たり前の立ち位置です。その努力は当然、続けて行くことが必要だと思ってます。ヌーソロジーはそうした態度を無視するものではなく、現実を別のものに変えて行くための作業です。人間には人間としての現実がありますし、また、新しく生まれてくるであろう新しい知性体には彼らなりの現実があることでしょう。この二つの現実感には当然、絶対的な差異があるのは当たり前で、と言って、これは二者択一という問題ではありません。つまり、同一の地平にある価値観ではないので二律背反はすることはない、ということですね。
>ミスランディアさん
ヌーソロジーに関わっている他の方たちがどうかは分かりませんが、僕の場合、ヌース的な思考に携わっていると、人間としての現実問題に感心が薄くなるということはある意味、事実ですね。しかし、そうした観念的世界に浸ってばかりでは現実が等閑になり、そのギャップで不幸な感覚が必ず襲ってきます。その意味で本来、観念世界を探索する作業はまずはしっかりとした現実生活の基盤を作った者がやるべきことなのだと思います。カバラでも本来はそうですよね。
少しマッチョな言い方になってしまうかもしれませんが、自分の経験から言って、現実生活に対処できない精神力で、観念世界の探索に対処できるとは到底、思えないのです。中途半端な思慮では、大抵の場合がルサンチマンの虜になってしまうのではないかと思います。僕もその点をつねに自戒していますよ。
レモンπ
2010年2月16日 @ 01:06
kohsenさん コメントありがとうございます。
どうもヌーソロジーについて混同していたところがあるようです。
>現実を別のものに変えて行くための作業です。
これは現実を新しい知性から見える現実に変えて行くという意味でしょうか?
ヌーソロジーとは人間から新しい知性体へと変換させていく学問と思っていたのでそこから見える新しい現実を今の現実に重ね合わせていくものかと思っていたのですがあくまでも別々にする必要がある訳ですね?
kohsen
2010年2月18日 @ 18:30
レモンπさん、こんにちは。
>これは現実を新しい知性から見える現実に変えて行くという意味でしょうか?
そうですね。物質や意識、身体、宇宙等、世界の存在物の意味構成を全く違った視座から組み替える作業と言っていいと思います。
>あくまでも別々にする必要がある訳ですね?
はい。ヌーソロジー的現実は通常の現実感覚とは絶対的な差異を持っています。ですから、どちらかに糾合させるということではなく、両方を合わせ持つといったニュアンスの方が的確な言い方になりますね。
hidemon
2010年2月22日 @ 11:01
表面的にはいろいろでも、、、
私は本来凡人のくせにたまに「示唆される」なんてことを言います。なんじゃそれ!ですが
一昔前のひとは「運命」「掲示」だとか言っていたモノです。(おいおい!)
まるで私が「選ばれた人」のように聞こえますが?実際はかなり違います。ちょっと芽が出たモヤシに起こる現象だと思います。自分自身で理解し進んでゆける人には必要ないからです。
私が勘違い猛進野郎になったときに起こりますから。
つまり、間違えているときです。
私は駅員です。仕事中にヌーソロじってます。普段は暇でどんどん持論展開しています。その節目で「できたんじゃないの?完成?」と、思った瞬間に電話がなります。
「無人の改札で切符が詰まっているから、お客さんはいない」つまり、りゆっくり行けばいいわけです。
間違えているから「歩きながらもう一回見てこい」というメッセージに思います。実際間違えていたりします。
さて?これが私のこじつけでなく本当に「示唆」ならば、キップをくしゃくしゃにしたお客さんもグルです。それも私が間違える前にくしゃくしゃにしていることになります。
他にもよく似たことが度々起こります。
これが続くと「自己嫌悪」します。
私は出来事に対して一喜一憂喜怒哀楽していますが。
私以外の世界のすべてが神様で、私だけが出来損ないの落ちこぼれので、早く宿題をやってしまいなさい。と言われているんじゃないかと思ってしまいます。
酔っぱらいのおっさんも、ヤンキー兄ちゃんも、本当はみんな神様で自分でそれを知っていて、みんなで私の面倒をみているんじゃ?なんてね!
表面的にはいろいろでも、裏ではちゃんと繋げられている。
神様に言いたい!「言いたいことがあるなら(いろいろ)にしないではっきり分かるようにしもらえないだろうか?陰毛の夢について一日中考えるのは40過ぎのおっさんにはちょっときついです。」
みら
2010年2月26日 @ 09:10
おじゃまします。
こんにちは、hidemonさん。そのモヤモヤ感、分かります(笑)。カミサマ、ちゃんと分かる様に言ってっ て(笑)。
夢等は、全て象徴で出て来ます。実は象徴はイデアを知る鍵なのです。自分の中のパターン、象徴に注意を向けて見ると良いかも知れません。出来れば夢日記をつけて見てはいかがでしょう。難しければ出て来たものだけ書き留めておくと、後で夢を思い出し易くなりますよ(笑)。