不動の身体

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現在、僕の頭を支配しているのは不動の身体感覚をどうやって知性に浮上させてくるかということ。もし身体が全く動いてないとしたら空間はどのように見えるのか。また、モノはどのように見えるのか。そのときの時間感覚はどのように変化するのか。仕事や家庭生活の合間に少しでも時間が空けば頭は即座にその問題についての思考に切り替わる。病気だ(笑)。

 最初にすぐに気づくのはモノの運動と身体の運動の根本的な相違だ。身体と世界の関係は運動においては相対的なものとなっている。だから、立ち上がるなり歩くなり宙返りするなり、自分の身体を動かせば必然的に世界全体が動く。この場合、身体を不動のものと見なせば世界全体の方が平行移動するなり、回っていると言える。しかし、モノ一個の運動はどうかと言うと、身体の運動とは相対性を持っていない。モノはあくまでも世界の中の一ローカルな座標として世界に対して相対運動をしているだけだ。

 このことからまず予想されるのは、モノと身体とは見てくれは同じ物質でも、その空間的な階層は次元を異にしているということだ。無限数のモノで構成されている世界自体は確かに身体と相対的な関係にあるが、一個のモノはその相対関係が作られている世界空間のその下部次元に位置している。物理学的に言えば、モノ一個の空間は座標にすぎないが身体の空間は座標系となっているということだ。

 さて、身体を不動のものと見なしているとあくまでも視覚的な意味においてなのだが、主体極と客体極というものが普段に増して強く意識されてくる。簡単に言えば、不動の身体が持った位置感覚と眼前に敷かれた奥行き上の一点の関係性である。わたしは世界を目撃するのはつねに奥行きにおいてであるし、外界に対する意識の志向性は常にこの奥行き上のベクトルもどきとして働いている。客体極をノエマとするなら、主体極から客体極に放たれるベクトルもどきがノエシスと言っていいだろう。この場合、奥行きの深さは一般に時間と呼ばれているものに対応している。

 目の前の鉛筆、たばこ、コーヒーカップ、壁に掛けた額……。わたしが眼差す対象は次々と移り変わっていくが、不動の身体においては世界側がグルグルと回転しているに過ぎない。

 今度は立ち上がって部屋の中を歩いてみる。世界が大きく動き出す。部屋の窓が近づいてきて、外の風景が見え出す。対象極には今度は屋外の風景が入り込んできて、近くの弁当屋や遠くのテレビ塔をまるでカメラの焦点合わせのようにまさぐり出す。しかしその方向は依然として眼前であることに変わらない。そこで僕はふと思う。主体極から対象極までの奥行きには時間があるのは分かる。問題はその向こうだ。対象極の向こう側には一体何があるのか。

 今度は外に出て真っすぐ歩いてみた。遠くに小さく道路標識が見える。それを対象極にセットして、どんどん接近を試みた。対象への接近は不動の身体から見ると対象極を原点とする三本の直交する線(x,y,z)が次々にスルスルとその対象極を通過してすべっていくかのように見える。いや、三本の座標軸が主体極を折り返し点にしてそれぞれの方向にただ回転しているかのようにも見える。ふと気がつくと、さっきまで小さくしか見えていなかった道路標識が目の前に大きく立ちはだかっていた。

——進入禁止。

 どひゃー。こうして、僕は不動の身体感覚を持ってしても対象の背後には絶対に侵入できないということが分かったのだった。
 この見えないカベを超える所作が反転の身振りである。おそらく、そこに見えてくるのは自分の後頭部に違いない。もちろん、不動の身体としての。